鉦が弾けるような、あるいは強く絡み合うような音色が、鼓膜を劈いた。
 春季は目を開いたまま、眼前の墨染めを見つめている。

「やっぱりそういうことか」

 場違いにのんびりと落ち着きはらった声が春季の耳朶を打つ。
 聞き覚えがあるのに、知っているものとはどこか異なるそれ。

「何奴!」

 平野は態勢を変え、さっと間合いを取って退いた。
 突然現われた第三者は、長い錫状を手にしている。あれで平野の刀を防いだのだろう。
 春季は背からゆっくりと視線を上げる。角度的に、ここからでは辛うじて頬しか見えない。
 だが一つ結びにした髪から覗く耳朶に光る金環に見覚えがある。
 その首が僅かに動き、肩越しに横目が向けられた。

「お待たせ。生きているかい」

 にこりと笑った面輪を見ても、春季にはしばらく名と一致するのに時間がかかった。

―――空蝉?」

 ようやく焦点が定まった時、まさか、と唖然とした。
 あまりにも雰囲気が違いすぎる。大体にして何かが妙だ。

「やれやれ、とことん手のかかるお坊ちゃんだね」

 すっかり呆気に取られている青年に、法師姿は鼻で軽く嘆息する。
 その口調や声色までが春季の知る空蝉とはどことなく違う。
 一方の雷蔵はそれっきり春季には目もくれず、平野に首を戻す。まるで道端でお布施でも乞うような緊張感のない佇まいだった。しかしその無防備ともとれる姿のどこにも隙がない。

「おのれ、仲間か」

 平野の眦が鋭く上がり、刀を構える背から闘気が立ち昇る。

「邪魔立てするな」
「傍観したいのは山々だけど、そうもいかない事情があってね。一宿一飯の恩とも言うし」

 雷蔵は首を軽く傾ける。まあ恩といえばむしろ雷蔵の方がよほど春季に貸しているし、一宿一飯といっても屋敷主は実治だが、この際置いておくとしよう。

「一応まだ生きていてもらわないと困るんで」

 これが一番の理由だ。春季には繋ぎ役を務めてもらわねばならない。
 ただあまりに味気も素っ気もない言い草に、春季はちょっと涙が出そうになった。愛情と言わぬまでも、せめて人情くらいは感じさせてくれたって罰は当たらぬのではないか。
 平野は一分一厘とも気を抜かず、切っ先を敵の額に定めている。
 鋭さを増す敵意に、雷蔵はトントンと錫状の先で床を小突いた。

「殿中だよ、御武家様」
「生臭坊主の分際で賢しい。侵入者を手討ちにしたところで罪には問われまい」

 刀を持ち替えるや、平野はカッと気合いを吐いて、間合いを詰めてきた。ダンッと足袋が板敷きを打つ。
 雷蔵は動かなかった。まるで他人事のごとく迫りくるものを眺めている。傍目には先ほどの春季と同じ状況だ。あともう一歩というところで、春季が思わず叫びそうになった。
 光が宙を一閃する、まさにその刹那だった。
 雲水袖が緩く揺れたかと思えば、錫状が右袈裟掛けの刀を掬い上げて弾き、返す動きでその懐を真っすぐ石突で突く。
 濁った呻きを放ち、平野は後退して鳩尾を抑えた。額に汗を浮かべ呼吸を乱しながら、射殺さんばかりに睨む。法師は先程と同じ位置に立ってほとんど動いていない。ただひと撫でして往なしただけにしか思えぬ軽い造作だった。平野の裂帛の一撃がまるで児戯である。
 雷蔵は錫状を持ち直し、屈辱に歯を噛む老練な武士をひたと見据えた。
 それからおもむろに口を開く。

「そこまで仙台殿を狙う理由は、彼が(さき)の城主の庶子だからかい」

 あっさりと放たれた一言に、春季の瞳が凍りついた。

―――え?」

 今。
 今何と言った?
 対する平野の顔色が、はっきりと変わった。歯の間から声を絞り出す。

「貴様……」
「先代である楠木平政には兄弟はない。直系は一粒種の娘だけ―――表向きはそういうことになっている」

 どくり、と心臓が鼓動を打つ。
 どうしてここはこんなにも静かなのだろうかと春季は思った。
 誰か来ればいい。来て話を中断してくれればいい。葛城は一体何をしているのだろう。
 しかし意に反して、耳は一言も聞きもらすまいと傾く。

「けれど実際には他にもう一人、男子がいた。正室でも側室でもなく、家臣の屋敷に仕える下女に産ませた落とし胤。それが仙台殿だね」

 確認の口調だったが、そこには確信が滲んでいる。
 一笑に付して誤魔化せぬことを悟ったか、平野は苦々しく顔を歪ませた。それを見て、春季は今の話が作り話や冗談などではないことを思い知るしかなかった。

「俺が前の城主の子?」

 春季はポツリと口にしてみる。しかし口に出しても、そのことはまるで現実味を帯びていなかった。引き攣った笑いを零す。

「はは、俺が? まさか! 俺はハルちゃんの父上の―――
「源幸綱は源殿が一歳の時に落馬によって性機能を喪失している」

 告げられた事実に、春季はぴたりと話を止めた。やはり初耳だったのだろう、愕然としている。

「このことを知っているのは当時でも僅かだった。男としては不名誉なことだしね。けれど前城主の側近であった君なら知っていたんじゃないかい?」

 平野は人格の厳しさの表れた口元を微かに動かした。

「……何故貴様が知っている」
「人の口に戸は立てられない」

 まるで世間話の口ぶりで雷蔵は言った。正確には佐介の握ってきた情報だが余計なことは伏せておく。

「だが大殿のご落胤については」
「これも当然知る者は極一部だったろうね。俺はただ想像しただけだよ」

 春季はずっと謀叛計画とは関係ない所で標的にされていた。ならば彼には狙われるべき別の理由があり、それは謎に包まれた彼の実父に関することではないか。

「この前提に立てば、暗殺対象と目されるほどなのだから相応の出自のはず。そう、たとえば前城主の血筋とか」

 春季は完全に絶句していた。あまりにも一度に色々なことが押し寄せてきて、頭の整理が追い付かない。

「一の姫しかいない現状で、もし楠木平政に男子がいたことが発覚すれば、家督相続権は自動的に彼に移る。大方、すでに真実を知る一部の者の間でそうした動きがあったんじゃないかい。けれど仙台殿に城主になられては困る君としては、彼の存在は邪魔だ。仙台殿は下剋上を起こして源殿を新しい城主に据えるとは言っているものの、もしも自分の出生の秘密に気づいたら、源殿を差し置いて我こそが、ということにならないとも限らないからね。あるいは周りが放っておかない。それだけは何とかして阻止しなければ―――そう考えた君は、あえて仲間として近づき、排除する機を狙った」

 ざっとこんなところかな、と雷蔵は括った。錫状が揺れ、しゃりんと涼しい音が鳴る。常ならば悪を祓うとされるその音も、今の春季には何の慰みにもならなかった。悪い夢を見ているようだ。
 しばらく黙考するように無言を貫いていた平野が、ようよう唇を開いた。

「大殿が幸綱殿の屋敷へお忍びで行かれるのはよくあることであった。―――そしてある日そこに働く美しい女中を見初めた」

 しかし女はすでに夫と子がある身。庶民と異なり相応の身分もあり、おまけに乳母として雇われていた。
 世間体的に妾に迎えることは到底できない。

「御手をつかれたのも、一時の気紛れのこと」

 そのたった一時の気紛れで、まさか子を孕むとは誰も想像だにしなかった。
 勝手なことを、と春季はカッと腹の底が熱くなった。手籠にしたというのに、あまりの言いようだった。あの誇り高い母が一体どんな思いで屈辱に甘んじたのだろう。軽々な欲望のために、母や自分があれほど苦しめられ、住処を追われたのか。

「大殿には内密にしたものの、楠木の血を引く子には変わりなく、流すに流せぬ。否、女は流すことを願ったが、幸綱と美生殿が説得して止めたのじゃ」

 嘆息を漏らしつつ平野は首を振る。
 美生があれだけ春季に親身になったのは、春季が城主楠木家唯一の直系男子であったからであったか。
 畳に座り込みながら話を聞く春季の相貌はすでに真っ青で、微かに震えていた。

「儂は初めから反対しておった。大殿が女を見初めた時も、御手を出されんとした時も、幾度もお諌めした。けれど殿はお聞き入れにならなかった。やがて幸綱から女が身籠ったとの報告を受けた。大殿には大姫しかおらぬ故、万一の為にと存在を隠したまま産ませたが、育ってみれば遊んでばかりのろくでなしときた」

 春季には反論する気力さえないようだった。言われるがままに任せている。

「こんな者が万々が一にでもこの領地の主となれば、どうなってしまうか分からぬ。ただでさえ今は姫御前のために城中が荒れておるというのに。その点、実治殿ならば血筋、器量とも申し分はない」
「! 俺だって……!」

 そこでようやく、弾かれたように身を起こす。

「俺だって、誰が跡目なんか継ぐ気―――
「たとえお主自身がそう思っていようと、世にはあらがえぬ流れというものがある」

 厳然と言い渡す平野に、春季は反駁を詰まらせた。

「落胤の存在について知る者は少ない。大殿でさえ知らぬのだ。証拠など何もない。となれば周囲が何を言ったところでどうとでも取り繕える。儂もここまで躍起にはならなんだ。だが」

 平野の鋭い双眸が春季を射る。

「いくら証拠など何もないと言ったところで、動かぬ証が歩いていれば、どうしようもない」
「動かぬ証?」
「お主の顔には、大殿の面差しがはっきりと表れておる」

 春季は膝を立てたまま固まった。恐る恐る己の頬に触れる。自分はずっと母似なのだと思っていた。仙台の父には勿論のこと、幸綱にも顔のつくりは似てはいない。

「大殿の血を受け継いでいることは言わずとも明らか。重ねてご落胤のことを知る者達の中で、密かに御前の代わりにお主を立てんと画策している。あ奴らは利己のために、より操りやすい方を上に抱えようとしているにすぎぬ。そうなれば儂とて黙ってはおれぬ。儂にはこの領土を守る義務がある」

 だから春季の存在を抹殺しようと目論んだ。
 なるほどね、と雷蔵は伏せていた瞳を上げ、老いてもなお忠義心に全霊を賭す老臣へと向けた。

「お話の全容は大体分かったよ。ということで、ここからは俺の提案なんだけど」

 場の空気を分かっていないかのような、実に和やかな口調である。

「?」

 平野は明らかに訝っていた。そもそもこの突然現れた法師が一体何者なのか、そこからして知らぬのだ。

「君らの家法はよく知らないけど、一般的に言えばある戸主が縁戚から後嗣として養子を迎えた場合、たとえ他家に出した私生子が後から現われても、家督相続順位は依然、養嫡子の方が上にくるはずだよね」

 武家の子には、正室嫡出である嫡子と、妾腹などの庶子の別があるが、どちらも本来は出生後然るべき役場へ嫡庶の届けを出し、認めを得なければならない。
 ところが春季の場合、実父である平政には正式に認められておらず、嫡子どころか庶子の届け出も為されぬまま、仙台家において生まれ出た。名目上は仙台家の嫡子であるが、厳密には義理の子となる。

「要するにさ、目下共通の弊害は御前様なんだろ。ならばその御前様が源殿に家督を譲り渡し、源殿を楠木家の義理の長子とするよう仕向ければ万事穏便に済むわけだ」
「だがそんなに上手くは……」

 胡乱気に目を眇める平野に、雷蔵が朗らかに笑む。
 それから驚くべきことを口にし、平野ばかりか春季の度肝を抜いた。

「まあ、ひとまずここは俺に任せてみない? 決して悪いようにはしない」

 すっかり毒気を抜かれている二人へ、雷蔵は意味深長な色を瞳に浮かべた。
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