12.霧中の実あるいは夢中の真



 翌日、朝日に照らし出された春先の空は、晴れやかとはいかぬまでも、前日に比べれば雲が大分薄い。紫立ってたなびくそれがむしろ幻想的だと、和歌(うた)を嗜む者ならば一首練ったかもしれない。
 しかし生憎と春季にはそのような風情を楽しむ余裕はなかった。昨夜脅しかけられた通り(そういえば実治に見つからぬよう床の間に刀を戻すのも骨が折れた)、密かに行動に出た。
 実治に随従して城に着いた後、しばらくしてからそれとなく仲間たちから離れ、城外の裏手に回る。予め植え込みに隠し置いていた荷を藪の中から取り出し、覆いを外す。中身は偽装用の着替えだ。人目を欺くため小袖の上から参城用の肩衣を纏うと、城の勝手口である搦手門へ向かう。番役は買収してあり、春季の顔を見るなり何も言わずすんなり道を開けた。下働きを通じて前々から口説き落として懇意になっていた女中を呼び出し、それとなく葛城への伝言を託せば、ほどなくして応答があった。途中までは女中の案内で忍び込めるが、表座敷は彼女らの領域ではない。そこからは連絡役の葛城が自ら出迎え、通路を選んで人目につかぬ室まで手引きしてくれた。
 葛城は周りに人のないことを再度慎重に確認しながら、ようやく春季に向き直る。

「どういうことです」

 葛城は抑えた声で、戸惑いの視線を投げかけて来た。それもそうだろう、と春季は他人事のごとく同感を示す。

「突然このように手引きをせよとは……万一にも他人に見咎められて疑いを抱かれれば、折角これまで詰めた計画も水の泡。いかに源殿の威光があろうとただでは済みますまい」
「危険は重々承知だよ。葛城殿にはこんなことになってすまなく思う。でも必要なことなんだ」

 仔細は訊かないでくれよ、と春季は願った。何がどう必要なのか、春季自身だって分からないのだ。

「今日御前を謁見の広間に誘い出して欲しい」
「御前を? どうしてまた」

 突拍子もない申し出に目を剥く葛城に、春季は急いた調子で言った。

「理由はあとで必ず説明する。けれど今は時間がない。頼む、このとおり」

 しかし、と葛城は眉間を曇らせる。

「御前は必要がなければ奥座敷からお出にならない。一体どうやって誘い出せというのです」

 一瞬迷ってから舌を舐めた。「ぎりぎりまでこの札は切るな」という空蝉の忠告が頭を過ぎったが、差し迫っている今、他に思いつかない。翻せばここが切り所ということでいいのではないか。

「上女中に託けを―――謡曲師が御前様をお待ち申し上げていると」

 この言葉に、葛城は意表を突かれたようだ。まさしく瓢箪から駒のごとく、思いもよらぬところから思いもよらぬ話が飛び出し、どう反応して良いか分からぬという顔であった。

「まさか」

 それだけを言うので精一杯とばかりだ。

「実はそのまさかなんだ」

 俺も思いもよらなかったけど、とは心の中で付け加える。

「ですが―――肝心のその者は一体どこに?」
「それは……」

 春季は返答に窮した。何せ空蝉はただ御前を引き出せと言ったのみで、自分たちはどうするとも言わなかった。今朝も背後を探してみたが、別段影からついて来ている気配もない。安全な場所まで手引きしろと言われても、これでは何時、如何やって為せばいいのか分からない。

「直に向こうから訪いがある」

 そうとしか言えなかった。葛城も変な顔をしている。

「それが確かなれば勿論ご協力も吝かではござらんが」

 危ない橋を渡るわけにはいかない。葛城の心配は尤もだし、事が事なだけに慎重になるのは理解できる。
 だから春季は胆を据えての大賭けに出た。

「信じてくれ」

 半分は己に言い聞かせるように、そして半分は空蝉への信頼を込めて。
 決して生半可な気持ちではないその一言で、春季自身も今の今まで揺らいでいた心が決まった。
 そこに春季の覚悟を感じ取ったか、葛城はようやく納得したようだ。腹を決めた表情で肯き、「承知した」と応じた。

「貴殿がそこまで言われるのであれば、信じましょう」

 その科白は、予想以上に春季の心に響いた。たかが下級武士の青二才の言うことを、葛城は侮ることなくいつだって真摯に耳を傾けてくれる。嬉しさを噛み締めながら、忝い、と心から礼を述べた。
 まずは御前の方へ働きかけるところから始めねばならない。座が整ったら頃合いを計って呼びに来ると言い残し、葛城は室を後にした。もちろん彼に他言無用―――たとえ仲間であっても―――と釘を差しておくのは忘れなかった。
 一人残された春季は、そこでようやく息を吐く。これで役目は果たした。あとは空蝉に任せるのみだ。
 ずるずると柱に凭れながら座り込み、足を投げ出す。少々行儀が悪いが、誰も見ていないから構わないだろう。

(しかし俺も、何でまたホイホイ言いなりになってるんだろ)

 考えてみれば不思議なものだ。数日前に初めて会ったばかりの、見ず知らずの娘、それも忍びの者(元とは言っていたが)の言葉に従っている自分。最初は警戒していたはずなのに、今では何の疑問もなく信用している。命を救われたせいだろうか。それとも。

(おいおい、それとも何だっていうんだ)

 春季はにわかに頭を抱え、いつになくひっ詰めた髪を掻き毟った。

(もしかしてこれって……いやいやまさか)

 だとしたら拙いぞと独りごちる。女は好きだ。好きだが、本気なんて自分の柄じゃない、大体にして今はそのような浮ついたことに現を抜かしている場合でもない。


(それに何か違う気がするんだよな、この感じ。惚れた腫れたとかじゃなくて、もっと―――

 うんうんと煩悶しているその背後で、不意にスッと襖が横に滑った。
 気配に気づいて、春季はハッと懊悩から我に返り飛び上がった。
 まさか口に出してはいなかったと思うが、気持ちの問題として相当気まずい。
 内心の焦りを押し隠すように、務めて冷静を気取って振り返った。

「葛城殿、随分早く―――

 言いかけた声が途切れる。
 そこに立っていたのは、葛城ではなかった。

「ひ、平野殿」

 平野は、何の感情も映さぬ無機質な瞳で、春季を見下ろしていた。
 春季は動悸のあまり飛び出しそうになる心の臓を宥めながら必死に平静を保った。不必要に警戒を示したり、動揺を見せてはいけない。平野は春季が裏切りに気づいていることをまだ知らぬはずなのだから。
 ひとまず落ち着いて、一体何故平野が此処にいるのか考えようとした。

「葛城殿に伺った」

 春季の疑問を先読んだか、平野が低く言う。
 おかしい、と春季は思った。葛城には、たとえ仲間であっても誰にも言うなと言っていたはずだ。たとえ平野が相手とはいえ、約定を違えるはずがない。
 “影”か。
 不意に一度襲いかかって来た黒装束の刺客たちが脳裏に閃く。空蝉から聞いている。平野は姫御前直属のはずの忍び衆を動かすほどの力を持っていると。

「仙台殿、一体何故城に?」
「いや、ええっと」

 詰問口調に、しどろもどろになる。葛城へ啖呵を切ったあの勢いは急激に萎えていった。平野を前にすると、厳格な教師に叱責を受けている童のような感覚になり、どうにも萎縮してしまう。
 俯き加減に言葉を探している春季をじっと見据えながら、平野は吐息をつく。

「全く、いつもながら突拍子のないことをする御仁だ」

 その言葉があまりにも穏やかなものであったから、春季はホッと肩から力を抜いた。
 一時の緊張で警戒してしまったが、さすがに平野とて殿中でどうこうするという暴挙には及ばぬだろう。
 そう思い直し、へらりと笑う。「いやはや、面目―――

「だから安心できぬ」

 不意に声の調子が変わったことに、疑問を持つゆとりはなかった。
 ゆらりと平野の袖が動き―――風を切る。
 え、という声は、音にならなかった。
 次の瞬間、春季は尻を床につけていた。ぽたりと赤い雫が板の間に落ちる。
 衣ごと斬られた肩から流れる血はそのまま、春季は呆けたように瞠目して、目前に刀を構える男を見上げていた。
 平野はチッと舌打ちをした。

「避けたか」

 本能が叫ぶまま、咄嗟に春季は動いていた。それくらいの反射神経なら持ち合わせていたのが、平野としては誤算だったようだ。

「平野殿―――

 茫然と響く春季の声音に、老齢の男はいっそ冷徹なまでの眼差しを注いだ。

「何故、と問いたいのだろう」

 静かに紡がれる音は、これまでの親しみが全く消え去り、何の憐れみも宿していない。

「だが知る必要のないことだ」

 ただ、お主の存在が忌まわしいのみ。
 冷然と放たれた科白が、春季を金縛りにした。
 忌まわしい存在。必要のない人間。
 それは春季が、母と共に陰ながら浴びせ続けられた悪意。
 いなければいいのに。
 いなくなればいいのに。
 いっそ生まれて来なければ―――

「怨むなら己が母を恨め」

 振りあげられた刃の煌めきを、春季はただ双眸に映していた。

「冥土でな」

 妙に近くに反響した声で、ハッと我に返る。
 だが、金縛りは解けてもすでに避ける時間はなかった。
 迫る死の気配を、ぼんやりと眺め続ける。
 そして、視界に闇が舞い降りた。
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