見えぬ、見えぬ。何も見えぬ。

 閉め切った薄暗い室の内で、影が動く。重い襲が鈍い衣擦れの音を立てる。長く伸ばした髪は肩を流れ、衣の上に墨を零したような黒い川を作っている。その間からのぞく顔は、異様な面に隠されていた。歌舞に詳しい者ならばそれが蘭陵王を模したものと気づいただろう。
 震える白い指が、ゆっくりと髪の内に消える。紐がするりと解け、面が落ちた。

 視えない。何も。

 声なき声で慟哭する。愕然としながら、両手で顔を覆った。
 数日前まで確かに視えていたのだ。夢の中で、かの姿を捉えていた。それはいつも空の上からで、何かに邪魔されるように側には寄れなかったが、それでも遠くから確かに視ていた。

 視え始めたのはここ数か月のことだ。ある日突如として夢に現れた。
 最初は只の夢だろうと思った。恋焦がれる気持ちが現れたのだろうと。しかし毎夜のごとく視るようになると、徐々に怪しく思い始めた。
 おまけに夢の中はいつだって鮮明だった。まるで本当にそこに息づいているかのように、空気の匂いも風の感触も生々しかった。やがてそれが真であると気づくと、無性に欲しくなった。夢ではなく、現にこの目で見たい、この耳で聞きたい、この手で触れたい―――一旦想い始めると、それは留まるところを知らず、狂わんばかりにこの身を焦がした。だから探させた。いつもあと一歩というところで指先をすり抜けていくもどかしさに耐えながら、あるいは家臣たちの冷たい目に気づかぬふりをしながら、なおも諦めずに追い求めた。領地から出さぬよう、各所に見張りまで置いた。

 それがここ数日となって、いきなり視えなくなった。夢はいつも覆いをかけられたような闇の中だった。何も見えない。息遣いも感じられない。ただ仄かに馨るのは梅の香。
 覆った掌に雫がにじむ。ふと何かに惹かれるように顔が持ちあがった。濡れた瞳の先に、床の間に飾られた鞠がぽつんと置かれていた。
 そっと逸らした視線が、鏡台を射る。そこに映る影をじっと見つめる。ああ、なんと醜いのだろう。鏡の中から昏い眼で己が見返している。その唇には嘲るような笑みが刷かれている。
 悲鳴を上げて手を振り上げた。




 遠くで物の割れる音を聞きながら、男は廊下を音もなく歩いていた。
 齢五十を数える男は、続いて聞こえた癇癪の声に心中で微かな嘲りを零す。それからホッと疲れた息を吐いた。
 仕掛けた罠が未遂に終わるたびに、胸に重い澱が痞える。なかなかどうしてしぶとい。御前直属の忍びまで動かしたというのに、五体満足とは。
 老境に差しかかってなお鋭い眼差しを、誰もおらぬ空間へ差し向ける。そこに敵の幻でもあるかのごとく、双眸を険しく眇める。
 ここまできたのだ。どうあっても、計画を邪魔されることだけはあってはならない。どんなことをしても、目的を達成せねば。でなければ死んでも死にきれぬ。男は袖の下の拳をぐっと握りこんだ。
 そして今もまた、失敗の報告を受けているところである。

「やくざ者の狼藉に紛れ襲撃しましたが、途中思わぬ助け手があり……」
「しくじったと申すのか」
「お恥ずかしながら。存外腕の立つ男で」

 姿なき声に、微かな悔悟がにじむ。しかしそんなもので男の気は静まらない。

「助太刀したものは何者だ。奴の一味か?」
「いえ、それが同じ源家お抱えの家来衆の一人のようでして。たまたま通りがかったところのようでございます」
「たまたまか」

 苦々しい気持ちになる。全く、さして能があるとも思えぬのに、どこまでも悪運だけは強い。

「構わぬ。なれば儂自ら手を下すまで」

 動揺する気配が伝わる。しかしこうとなっては直接打って出るしかあるまい。あちらはすでに警戒を強めているし、その状態で繰り返し刺客を送り続ければ出元を探り当てられる。まだ疑心を抱いていない今ならば、きっと油断しているはず。

「平野様」

 不意に背後から声がかかる。サッと側の気配が消えた。
 振り向けば近習の一人が控えていた。

「そろそろ刻限にございます」

 もうそのような時間か、と思った。今日は源実治を筆頭に、領内外の物資流通についての儀があった。昨年の秋に上がった報告では、いささか作物の出来が良くなかった。他地方へ売りに出せる余剰が少ない。そこから得られる収入と、領内での不足物資の買い付けに必要な支出について、今年一年どう均衡をとるか、話し合わねばならない。

「あい分かった、今すぐ向かう」

 これからのことを考え重くなる頭をそれとなく振り、男は踵を返した。
 儀の間へ向かう途中、ふと見やると、廂に立ち腕組みして天を睨みつけている実治の姿があった。
 その眼光がまるで親の仇をみるかのようでもあったから、気づいた時には名を呼んでいた。

「おお、これは蔵方殿か」

 振りかえった実治が瞳に男の姿を映し、役名で呼ぶ。

「そのようなところで何をしておられるのかな」
「天を見ていた」

 年齢は遥かに離れているが、現領主の血縁である実治は家中衆の中でも一門衆にあたる。奉行衆の男に比べ身分は上だった。

「何かござるか」

 再び空に戻るその視線を追ってみたが、目を凝らせど先にあるのは白い空ばかり。雲間から微かに陽が差している。

「いや何、ひと雨来ぬものかと思ってな」
「言われてみれば今朝は今にも振らぬというかという有様でござったが、何時の間にやら雨気が引きましたな」

 雨は何かと不便だ。水に不足しているわけでないのなら降らぬにこしたことはない。
 そう言う男の隣で、実治が不服そうに低く唸る。このままでは賭けに負けてしまうではないか、とブツブツ独りごちる。その脳裏にほくそ笑む佐藤の姿が浮かんで、実治は余計に口をへの字に歪ませた。

「源殿、そろそろ時間でござろう」
「おおそうか。失念していた」

 今だ釈然とせぬ表情を浮かべながら、促されるままに実治は廂を背にした。
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