10.人恋い夢追い雨(やら)



 空は灰色の厚い雲が重なり、今にも泣き出しそうな模様だった。立ち込める湿った匂いに、城まで随行する誰もが腰の大小ともう一本、傘を持参している。
 その中でただ一人、佐藤だけは何も手にせず、身軽な装いで騎乗している。それを道中目敏く見止めたのは春季だった。

「あれ? 佐藤殿」
「何か」

 佐藤は一瞥を向けずに応じる。あの毒入り酒の一件があってすぐ、春季は適当な理由をつけて口止めし、佐藤もひとまず納得したふりをしていた。
 以来の会話である。春季はぱちぱちと目を瞬きながら指を差す。

「傘は? 持ってこなかったのかい」

 他の随従連中も気づいて指摘する。

「言われてみれば」
「この分には帰りあたりひと雨来るぞ」
「言っておくが貸さぬからな」

 からかい混じりの軽口が浴びせられる。

「何でえ佐藤よ、忘れたのか」

 そう揶揄する実治は、厚手の藍の小袖に群青の肩衣を重ね、裾を縛った山吹の袴と普段に比べれば幾段地味な出で立ちだ。濡れてもいいようにだろう。

「まあずぶ濡れになってどこぞの茶屋にしけ込み、狙いの給仕娘の関心を引くって計画なら止めやしねえが」
「ああ、なるほどそういうことか。ふーん、佐藤殿も意外とやるねぇ」
「はあ?」

 途端に眉間を皺寄せた佐藤を見て、実治が眉を軽く上げる。

「違ぇのか」
「残念ながら」

 にやにや笑っている実治や春季に対し、佐藤は引き攣りかける頬を辛うじて抑えた。心中では「何でこいつらは何でもかんでも女の誑し方につなげるのやら」と呆れる。

「無駄は避けたい主義にござれば」

 何だそれは、と実治は肩越しで怪訝そうな視線を向けてくる。他の随従たちも興味津々の様子だ。

「雨天でもないのに傘を持つ必要はないですからな」

 澄まし顔で言い放った佐藤に、周りがどよめく。

「ほう、随分自信があるな」
「何なら賭けましょうか」

 いつになく自信満々な口ぶりだ。実治は「面白いじゃねえか」とニヤリとした。

「いいぜ、賭けようじゃねえか。お前が買ったらそうだな……秘蔵の酒でもやるか」
「……酒は結構なので現金支給でお願いします」

 しばらく酒は勘弁だ。心持ちどんよりする佐藤やそっと気まずそうに視線を逸らす春季には気づかず、実治は不服気味に口を歪ませせる。

「見かけによらず俗物だな。まあいい、なら銀一両でどうだ。その代わり俺が買ったらおめえのその腰の大、寄越せ」

 きらりとその目が光る。それで皆の注目も集まる。そういえば佐藤は結構な業物を携えていた。実はこれ、随分前に彼が主から下賜されたもので、それだけに当然相当な上物である。正直「本業」中は使うことがない(重いし長いしで勝手が悪いのだ)ので、こういう時くらいしか陽の目を見ない。ただ何かの折に一度二度鞘から放ったことはある。実治のことだから前々から目をつけていたに違いない。

「さすがにお目が高いですな。よろしい、お受けしましょう」
「武士に二語はねえな」

 してやったりとばかりに笑う実治を見返し、佐藤は胸裡で舌を出す。生憎こちらとら武士ではない。その気になれば舌など十枚でも二十枚でも用意がある。
 おまけに、佐藤には絶対の勝算があった。あの雷蔵が「降らぬ」と言ったのだ。この空相に佐藤の勘は十中八九降ると訴えているが、雷蔵が言を外すことは十中十ありえない。

(頼んだぜ)

 と天を仰いで祈った。




 雷蔵は西の間の庭先に佇んでいた。瞳を閉じて、じっと天を仰いでいる。若草染の小袖が揺れる。
 その様子を、翁姿の惣之助は白い眉の下から不思議そうに見守っている。屋敷に人が少ない間に唄い合わせをするのではなかったかと探しにきたところだった。すでに声をかけてみたけれど、応じる声はなかった。
 今の雷蔵には、周りの音は聞こえない。否、聞こえてはいるがひどく遠い。
 意識は周囲の気に溶け込み、感覚は空高く舞い上がる。
 風の動き。雲の流れ。水の気配。すべてが身の内に入り、そして出で、そして同化する。
 天の気を掴む。

(捉えた)

 ゆっくりと両手を上げ、胸の前で合わせる。合掌から、親指と小指だけ合わせたまま開く。まるで蓮の花を象るかのように。
 小さく口中で文言を呟いた。どの地の言葉ともつかぬ音の並びは、歴代の解釈によると古い言語らしい。聞いたことはないのに、不思議と意味は溶けるように解せた。
 一体となっている大気へ働きかける。閉じた眼裏に視える。文字の羅列のように、理が姿を現す。意識の手を伸ばし、流れる網を手繰った。

(紡ぐ。放つ―――

 一陣の風が吹き抜けた。
 視界が明るくなったような気がして、惣之助は何かにつられるように空を見上げる。おや、と瞼を瞬いた。
 重く垂れこめていた雨雲が、いつの間にか薄くなっていた。それもまるで屋敷を中心とするように。晴れとまではいかないが、太陽の光が透けて地上に届く。
 雨の気配はいつの間にかどこぞへかに消え去っている。
 ふう、という小さな吐息で惣之助は慌てて視線を戻した。雷蔵は爺臭い挙措で首筋を手でほぐしているところだった。縁側に棒立ちになっている惣之助に気づき、「やあ」とのんびり手を振る。

「もしかして……雨を追いやったのかい?」

 惣之助はあんぐりと口を開けた。どう考えてもそうとしか思えなかった。
 あの瞬間、辺りすべての気が雷蔵の立つ場に凝縮され、そして一気に放出されたように感じた。
 雷蔵は曖昧に微笑んだ。

「君の種族はそういうこともできるのか」
「いいや、これはまた別物」

 先天的に持つものではなく後天的に得たもの。もちろん〈龍の民〉には雨乞いの巫女もいたが、雨遣らいはしなかった。
 今の雷蔵には望めば雨を呼ぶことも、追いやることもできる。この身に宿る〈秘伝〉は天理を網羅した奥義書だ。その理の解き方は継承者である雷蔵の身体を器として溶け込んでおり、天候を弄るくらいは朝飯前だった。その気になれば理を思うがまま操ることだってできる。だが歴代継承者の誰もがそういう使い方はしなかった。せいぜいあるべき自然の流れを少し変える程度。今回も、雷蔵は雨の気を消し去ったわけではない。天の周期を弄り、雨天を後ろへと押しやっただけだ。だからこの日の分の雨はまた後日やってくる。

 〈秘伝〉の力は少し変わっている。一般的な呪術師が霊力ないし通力を行使する場合、普通は「働きかけ」によって事を為す。雷蔵が龍弦琵琶を使う時も同様である。すべて「こちら」から念じ、請い願い、神霊を動かすのである。基本は強制的、あるいは取り引きによる使役だ。
 ところが〈秘伝〉は異なる。これは己を森羅万象の内に溶け込ませ、その法則を一時的に「借り受ける」ことを極意とする。端的に言えば、この瞬間、継承者は自然の一部であり、神霊に極めて近い存在になる。
 他の呪術師が時に術に失敗するのは、要請を拒絶されることがあるからに他ならない。たとえば陰陽師の類が好んで使うものに『急々如律令』という結びの呪があるが、これは元は唐語で「急ぎこのようにせよ」という指令書の決まり文句であり、すなわち命令であった。もしも術師の力が、助力を請う神霊に比して未熟であれば、相手は応じず、不発に終わる。
 だが〈秘伝〉を持つ者にはこのような矛盾も衝突もない。同時に術者にとって最も厄介かつ最も恐ろしい『返し風』、すなわち代償や反動の心配もない。その点が大きな違いだった。
 だからといって、あまり随意に手を加えれば、その歪みはいずれ必ずどこかで爆発する。雨を早めたり遅らせるくらいならばさして問題はないが、度を越えればそれこそ天災をも起こしかねない。裏を返せば、天災を起こすこともその心一つ。〈秘伝〉が狙われる理由、秘される理由はここにあった。

「雨が降ると香りが消えてしまうからね」

 雷蔵は身の内に呼び起こした理を奥底へ鎮めながら、言った。

「え?」
「香りは結界なんだよ」

 独り言にもにた雷蔵の台詞に、惣之助は怪訝そうな色を浮かべている。
 今も屋敷を覆うようにたゆたう梅の香り。これは梅香の結界だ。外敵から惣之助を守るための。これがあったから惣之助は雷蔵たちが襲われた時も難を逃れたし、御前の追尾の目からも隠されていた。
 しかし本人にはその実感はないようだ。さもありなん。

(ひとまずすべてが終わるまでは、雨を降らせるわけにはいかない)

 薄くほどけた雲間を見つめ上げながら、雷蔵は胸中で独りごちた。
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