6.忘れ路の果て 一つ(みち)の故



 春季が訪う時、大抵「空蝉」は本を読んでいるか、琵琶を爪弾いているかのどちらかだった。おまけに気配で分かってしまうのか(さすが元忍びというべきか)、声をかけても驚きもしなければ顔を向けさえしない。その余裕ぶりを何とか崩せぬものかと、息を殺して足を忍ばせてみたこともあるが、ついぞ出し抜けたことはなかった。
 今日もそこを通りかかると、琵琶の音が鼓膜を撫でた。

「本当に好きだよねぇ」

 もはや見慣れた景色に、春季はしみじみと零す。

「そういうあなたも本当に物好きですね」

 素っ気の欠片もない応答が返ってきた。しかし反応があるだけまだいつもよりはマシだ。
 事実、今回春季はいつにない大苦戦を強いられていた。空蝉には春季のこれまで使ってきた手が一切通じない。今までは相手を見て、確実に相手の心を掴む言葉を探り出してきたものだが、この空蝉、甘い囁きを弄せど無反応、率直な思いの丈もすべて素通り。一体何がその心に響くのか皆目分からない。
 いっそ実力行使、などとは春季の美学に反するのでもってのほかだ。というかそんなことしようものなら返り討ちに遇いかねない。ならば贈り物攻めと思っても、興味を引くものが分からないときた。唯一楽を奏でるのが趣味なのだとは分かるが、だからといって闇雲に楽器を贈るわけにもいかない。書物を請うので読書が好きなのかと思い、わざわざ稀覯本を取り寄せさせてみれど、至ってごく普通に「ありがとうございます」と受け取るのみ。これといって反応があるわけでもない。
 まさに手探り状態で挑んでいるわけだが、今のところ連戦連敗。暖簾に腕押しもいいところだ。

(まぁ慣れたけどね)

 心中で嘆息しながら、春季は隣にごろりと転がる。その時あれ、と呟いた。

「空蝉、耳に何かつけてる?」

 髪に隠れるようにして耳に光るものがある。初めて気づいた。

「ああ、これですか」

 「空蝉」こと雷蔵は弦から自分の耳に手をやり、鈍い光を放つ耳環(じかん)に触れた。
 そういえばこれとの付き合いも長いものだ。雷蔵は、すっかり馴染み今では身体の一部のようになっているそれを、今更のように思い出した。
 これはある種の制御装置である。元はといえば相棒が付けているのを目にしたのがきっかけだった。こうした装身具は存外役立つもので、長く身につけて気を溜めておけば万一力切れになった時に使えるし、妖の類相手ならば魔除けにもなる。いざとなったら金に困ったときに換金するのも手だ。
 余談だが、彼の製品はそれはそれはよく売れる。門外漢である雷蔵には何がいいのかよく分からないが、ただの鉄細工でも『その道』の目利き達には垂涎の逸品らしい。このような小さな鉄の環一つでさえ、彼の銘―――どうやら笹竹乱吹(ふぶき)という刀工号らしい―――が入っているというだけで価値が跳ね上がる。普段から世に出回ることの稀な幻の刀工であるだけに、装飾品となれば珍しさから悠に金幾枚になるという。

 相棒の場合は、暴走しがちな内なる力を封じるために、自ら打った(くろがね)珥璫(かざり)を耳に着けていた。何の変哲もない小さな丸い珠だが、本人曰く何でも高純度の玉鋼(たまはがね)を使い、特殊な製法を用いているとかで、それなりに効があるらしい。それは役に立ちそうだということで何かの折に雷蔵も一つ頼んでみた。揃いというのも何だか妙なので、環状のものを二つ。できあがったものには消毒と錆防止のためか、いぶしの金箔が貼られていた。おまけに文様細工など施されていたりして、さすがというべきか職人技である。
 一見するとただの金環だが、着けていると確かな脈動を感じる。気の循環を良くし、効率良く力を使えるよう調整してくれるので、雷蔵にとっては制御というよりもどちらかと言えば補助具に近い。
 だがいかんせん、長い年月着け続けているせいですっかり忘れ果てていた。確かに町娘の装飾品としては違和感がある。

「やっぱり町人って感じじゃないね。琵琶なんて都人かお公家様でもあるまいし。そもそも忍びも楽なんか習うなんて知らなかったよ」

 春季はなおも指摘するが、実際の忍びはいつでもどこへでも忍び込めるように様々な技を身につけさせられる。特に京里忍城は裏傾城があったから、ほぼ全員何かしら会得していた。特に花街に潜入するくノ一ともなれば、あらゆる芸事に通じていた。男忍びもくノ一ほど徹底してはいないが、変装して情勢を探ることもあるので、ある者は本物の坊主よりも読経が上手く、ある者は下手な謡い手よりよほど巧みに謡ってみせる。
 ただし雷蔵の場合はその範疇ではない。彼は忍びの技を習うよりもずっと前から龍弦琵琶に触れていた。だがそれを春季に教える義理はない。

「しかしまぁ、本当に琵琶弾くのが好きなんだね」

 春季が見たところ、空蝉は琵琶を奏でている時だけどこか雰囲気が違う。本人は気づいているか分からないが。

「手習いも長年続けていればなんとやらってやつですよ」

 そんな諺あったっけ、と春季は首をしきりにひねっている。

「それよりも、日がなこうしてうつつを抜かしているようですが、仕事はしないんですか」
「仕事?」

 春季はその言葉を不思議そうに鸚鵡返しに転がした。仕事、仕事ねぇと首を左右に傾げる。

「俺みたいなのはどこにいても出番ないよ。一応お城まではハルちゃんに随って行くけど、登城もできない下級武士だし、ハルちゃんの手伝いしたくても最近はお城のことで忙しいみたいでほとんど顔合わせられないし。といって屋敷にいても、家のことは下働きが取り仕切るし」
「要するに今はただ飯食らいということですね」

 この一言は春季の心にぐさりと刺さった。
 好きで何もしていないわけじゃない。しかし実治はどうでもいいような雑務は自分よりも下っ端の連中に命じるし、用を申しつけるなんて稀だ。乳兄弟だから遠慮している(粗野に見えて結構気遣い屋なのだ)のかもしれないが、春季としてはもっと役立ちたいので、下手な心遣いに逆に忸怩とさせられていた。

「人探しをしていたのでは?」
「まぁ一応それは続けてるよ。でも雲をつかむような話さ。なんていっても―――

 とここまで言いかけて、はたと口を閉ざした。危うく漏らすところだった。
 言えたものではない。一城の主が、すでに破門を受け行方知れずとなっている歌謡い一人のために城中を動員して探させているなどと。ばれたところで犯罪ではないが、故郷の恥以外なんでもない。
 いつもはこれほど口は軽くないはずなのだが、どうしたことだろうと自嘲する。
 しかしこの場の唯一の聞き手はさして気を留めた様子もなく、ゆっくりした手つきで弦を弾く。嫋とした一鳴りに、春季は知らず耳を引かれる。

「空蝉はさ、なんで忍びなんかなったわけ」
「さあ。里の者はすべからく忍びになるものですから、理由など考えたこともないし、多分ないのでしょう」

 答えに期待していなかったのだが、意外なことに返事が返ってきた。今日は重ね重ね珍しいことばかりえである。
 語る空蝉の目はどこか遠くを見ていた。更に琵琶の音が掻き鳴らされる。いつの間にか、それは旋律をなぞり、曲となっていた。
 音に誘われるように、春季は口を開いた。

「俺はね、五つのころ母に連れられてここに来られたんだ」
「確か源様とは乳兄弟だとか」
「そう。でも実際にはハルちゃんと兄が、なんだけどね。兄は俺の二つ上で、母は兄を生んだ時に丁度ハルちゃんの乳母として源家に来たんだよ。でも俺ができてから、一回離れて……父が死んで寡婦になったところに、ハルちゃんの母上の温情でまた戻ってきたわけ。兄は仙台家の跡取りだから、父方の祖父母に引き取られて、俺だけが母と一緒に来た」

 フフと小さく喉を震わす。

「分かるだろ。乳母やってた人がさ、一体誰の子を孕むんだろうね。五つまでは仙台の家だったけど、散々なものさ。父は母を庇って、腹の子は自分のだって言い張ってくれたけど、母は親戚中から不徳者だの淫売だのと罵られたよ。ほんと肩身が狭くてねぇ。それでも兄もまだ幼かったから追い出されはしなかったけど、父が死ぬと次の日にはポイッさ。葬儀に出るどころか、悲しむ暇さえなかった」

 そう語る春季は、いつになく自虐的だった。その目が、揺れる昏い湖面を思わせる。
 このような恥を抱えたまま実家に出戻るわけにもいかず行き場を失った母子を拾ってくれたのは、実治の母だった。正妻美生(みお)の方は己の殿がしでかしたことにすぐに気づいたようだ。
 夫を寝取ったと憎まれてもしょうがないのに、美生の方は母子に辛く当たるどころか、春季にさえ我が子のように優しく接した。表向きは仙台の次男だが、曲がりなりにも源の血を引いているわけだから、相応に扱おうとしたのかもしれない。しかしそれでは春季の母の気が治まらなかったから、あくまで使用人として屋敷においてもらうことにした。

「しばらくは楽しかったな。俺はまだ幼かったから、ハルちゃんの目付け役って名目でいつも一緒に遊びまわってた。でも幸せってのはそう長く続かないもんでね。無理が祟ったのか、母さんがぽっくり逝っちゃって、すぐまた美生の方も病気で亡くなられた。そうすると今度は源の屋敷中が俺の扱いに困るわけさ。ハルちゃんのお父上はどうでも良さそうだったよ。どこぞの適当な寺にでも入れればいい、だって」

 それを止めたのが実治だった。春季は自分の子飼いで腹心予定だから、自分が面倒を見ると強硬に反発したのだ。それで父親から一喝されて殴られても、実治はめげなかった。あわや勘当というところで、実治はたった一人の長男だ。ついには実治の教育係が、将来的にそういう役割の者も必要であろうと説得をして、事なきを得た。

「その時から俺は決めたんだ」

 春季はごろりと床の上に仰向けに転がる。木の匂いが鼻を掠めた。側には緩やかに奏でられる琵琶の音。

「源の家は、城主の楠木家とは先々代城主のころから姻戚関係を結んでいて、大殿の実妹が先代城主に嫁いでいる」

 雷蔵は弦を奏でる手を止めずに、ふと口を開いた。

「ということは姫御前と源殿は」
「従兄妹ってことになるね」

 寝転がったままごろんと雷蔵の方へ向き直り、肘をつく。そのまま瞼を軽く伏せた。

「楠木は代々子の少ない血筋で、城主にも御前様にも他に兄弟がいない。血の繋がりで一番近いのはハルちゃんなんだ。だから、ハルちゃんにも領主になる資格はある」
「でも今の御城主は御前様でしょう」
「ハッ、あんなの」

 女は愛でてなんぼを豪語する春季にしては珍しく、蔑みの口調で吐き捨てた。

「城主なんて言わない。領内の統治の何もかも放り出して、たった一人の放浪男を追いかけているようなお(ひい)様なんて」

 冷笑する春季の目が眇められる。

「それくらいなら、いっそハルちゃんが城主になればいいんだ。その方がこの地にとってもいい……ハルちゃんを城主にするためなら、俺は何だってやるよ」
「それが叶わなかったら?」

 嫋、と弦が鳴る。
 春季はいっそ凄艶と言える笑みを作った。

「何が何でも叶わせてみせる。味方が一人もいなくなっても。それでも駄目なら、刺し違えてでもみせるさ」
前へ 目次へ 準備中