6.邂逅は突然に



 静かな洞穴の中で、時だけが刻々と過ぎてゆく。やがて外では月が頂点に昇り、生き物の寝静まる夜の気配が増す。

(頃合かな)

 依然瞳を閉じたまま、雷蔵は微かに身じろいだ。
 同時に、洞窟内にも微細な変化が訪れる。篝火が音を立てて弾けた。
 その時、房の対面の壁際で、眠っているように思われた有髪の法師が、ふと瞼だけを上げる。その袖が、おもむろに揺れた。
 シンと静まり返った牢獄。どの房からも人の声どころか活動の息吹が感じられない。すべてが闇に呑まれたかのごとく、静寂が場を支配する。
 誰にも気づかれず、空間に伸びてゆく眠りにいざなう腕。囚人はおろか、監視人すらも、知らぬうちに昏々と夢の世界へと落ちていった。
 ぴちゃん、と水滴が落ちる音が、伸びやかな波紋を描いて反響した。
 再び炎が揺れる。
 雷蔵は袖の中で手の内の小さな袋の口を閉めながら、僅かに目を開く。ぽつりと、口を開いた。

「それで?」
「第一声がそれかよ……」

 向かいから、脱力感にあふれた声がくぐもって伝わってきた。
 声の主が、顔を上げる。
 肩まで伸びた不揃いの髪が揺れ、呆れとも疲れともつかぬ面持ちがまっすぐ雷蔵に向けられる。
 雷蔵は頬を緩め、

「何、もしかして『こんなところで会えるなんてもうまさに運命だよね』とか期待してたの?」

 「お望みなら今からでも仕切り直ししてあげるけど」といえば、「気色悪いからやめろ」と心底薄ら寒そうな応えが返ってきた。
 先だっての無関心振りとは打って変わり、空気が和らぐ。

「それにしたってガン無視とは、大概友達甲斐がないよね、君って男は」
「それはお前が『知らぬふりをしろ』っつーからだろ! 俺は言うとおりにしただけだぞ」

 非難がましい言葉を浴びせられ、言いがかりだと言わんばかりに反論する。

「いやいや、実際のところこの合図を覚えているかどうかちょっと不安だったんだ」

 と雷蔵は含み笑い混じりに告白した。

「お前が決めたんだろうが、“瞬き一のち右はすなわち潜伏中”だって」

 がしがしと頭をかきながら彼はぼやく。

「俺がっていうより、京里忍城の、ね」

 雷蔵は軽い口調で訂正した。
 これは忍びが用いる信号のようなもの。忍びはとかく隠密行動が多い。当然それは、様々な土地で他人に成りすましての潜伏捜査も含まれるわけで、別件で動いている仲間とうっかり鉢合わせ、などということもなくはない。
 そんな時のため、彼らは顔見知りと出合った時でも、表情に出さないことも含め、仲間内にしかわからぬ合図を交わし、互いに状況判断するようにしている。主には目を使ったものが多い。
 例えば“瞬き一のち右”、つまり一回目を瞬いてすぐ右へ動かせば“潜伏中、他人のフリをせよ”、もしも左へ動かしたならば“今なら話しても大丈夫だ”の意、あるいは素早く二回連続瞬いたならば“あとで落ち合おう”などというように、言葉を交わすことなく、他の人間に不審がられずに意思を伝える術をいくつも持ち合わせている。
 もちろん個々の合図は所属する集団によって異なるが、京里忍城で定められた今の動作は、事あるごとに尋常でない事態に巻き込まれ、かつしょっちゅうばったり出くわすことの多い雷蔵とこのやさぐれた法師の間で申し合わせた合図のひとつでもあった。

「よく分かったね」

 雷蔵は顔の前で小袋を揺らす。袖口に忍ばせていたその小袋の中には、強力な睡眠の薬香が入っていた。遍く薬物に耐性のある雷蔵にはこの程度では効かないが、普通の人間なら即効で夢の中だ。
 では何故あと一人だけ効果が現れてないかというと―――
 伸びっぱなしの髪を揺らし、彼はおもむろに袖口を捲くって、あらわれた腕に刺さる細い銀の鍼を抜いた。
 血は出ない。

「お前のやりそうなことは大体見当ついてるからな」

 覚醒を促す経穴の上を撫でながら、溜息まじりに言う。

「おお、さすがよしよし」
「だからそれやめろって」

 嫌そうに顔をしかめ、「全く相変わらずだよなお前は」と疲れたように項垂れる。そもそもこんなふざけた渾名をつけたのは他でもなく雷蔵で、青年の名字が読みようによってはどちらとも「よし」になるため、「それじゃあ渾名はよしよしだね」などとのたまったことが発端である。
 だが呼んでいるのは後にも先にも雷蔵ひとりのみ。そして呼ばれる当人としては甚だ不愉快な愛称だ。

「相変わらず堪え性ないねぇ、よっしーは」

 いい加減怒り半ばに達してきた相手は、渋面を片手で覆った。苦虫を噛み潰したような顔のこめかみあたりが引きつっている。イラッとくる。イラッとくるが乗ってはいけない。挨拶代わりにわざとこうやって挑発して反応を見て遊んでいるのだ。毎度分かっている。分かってはいるがしかし我慢の限界というものがある。

「それで、結局美吉(みよし)は何でここに?」

 今度こそ苦言を呈さんとしたところで、雷蔵の口調がさらりと改まる。
 出鼻をくじかれて青年―――美吉は一瞬詰まったが、やがて諦めの息をつく。普段他人を翻弄するのは自分の方だが、相変わらずこの相手にだけはその調子も狂わされる。今では大分慣れたものだが。

「……俺はこの町に来る前の街道で、ぶつかってきた坊主が間違って俺の荷を持ってったから、それを追いかけてきたんだよ」

 面倒臭げに述べる美吉に、雷蔵が反応を示す。

「荷―――ってことは美吉、もしかして」

 途端に呆れを表した口調に、美吉は組んだ腕を枕に壁に背をぶつけ、ヤケクソ気味に言い捨てた。

「ああ。ついでに俺の貴重な鍼道具一式も医法覚書も、ぜぇーんぶ。な」
「……」
「何だよその顔。ああそうさ、俺は間抜けさ。なんか文句あるか」
「いや、そうじゃなくて」

 勝手に不貞腐れた美吉の意に反し、雷蔵が関心を示す点は、もっと別のところにあった。口元にあてていた手を放して上方を仰ぎ、

「そうか、道理でさっき会うまで君に気がつかなかったわけだ。でもその話が本当なら、つまり一日たってもまだ“戻って”きてないって事では?」
「まぁな。どーもなんかの(まじな)いに邪魔されてるっぽいんだよ。結界か、はたまた呪具か―――治療道具はともかく、あんなもん戻ってこないならこないでも一向に構わねぇんだが、さすがにちょいと気になってな」
「ということは、相手は“あれ”がただ見た目通りのものでないことに気づいたってことかい」
「その可能性は大いにある」

 美吉が大きく頷く。雷蔵は更に呆れたように言った。

「君ならすぐ取り戻すこともできただろうに、なんだって大人しく掴まえられているわけ」
「俺だって、はじめはさっさと取り返してトンズラこくつもりだったさ。けど着いた日早々、別の旅坊主が連れてかれるとこを目撃してな。それでなんとなく身を潜めてしばらく様子見してたんだが、どうもこれが一度や二度のことじゃない。あまりにも臭うから少し探ってみようかと思ったんだよ」

 美吉は誤った見解をされる前に洗いざらい話す。そして、よく考えるとこんなに喋るのは久方ぶりだな、と心中でぼやく。普段一人旅をしているせいか、あまり誰かと話す機会がない。

―――何かおかしいよ。特にここは」

 斜めに睨み上げ、確信ある口ぶりで断定する。
 それを受けて雷蔵も同意を示した。

「君も気づいた?」
「ああ」

 雷蔵の示唆する意味を正確に汲み取りながら、美吉は声を潜める。

「“白石”の砂利道とか、な」

 ここに至るまでの間の、白石を敷きつめた地。通常白石を敷くのは、俗や常とは一線を画した特別な空間を意味する。裁きの場の御白州もその一つだし、特にこれほどの広範囲のものとなると、普通神社などの神域か、あるいは人の足踏み入れぬ石庭などでしか見ない。
 だが明らかに庭園目的ではないとすれば、

「ただの年寄の屋敷にこれはどう見ても変だ」
―――『神域』か」

 雷蔵は双眸を細めた。

「おまけにこの地下洞窟。裏手に山があったことを考えれば……分かるだろ?」
「鉱山と坑道というわけだね」
「あったりぃ」

 おどけた仕草で美吉が肯定する。状況証拠のみでの確信に対し、雷蔵もとくに疑問や反論を唱えない。彼―――美吉には見なくとも“分かる”からだ。
 その美吉が腕を組む。

「どうも、あの〈寺院〉とやらが臭うな」
「やっぱり、あれかね」
「町の奴らをみたか?」

 辻での一騒動を思い出し、雷蔵は無言のまま頷く。

「いきなり神主みたいな人が現れたかと思うと、皆血相を変えて集まっていったよ」
「酒を貰いに、だろ」
「ああ」
「あれは〈神血(かむち)御酒(みき)〉なんだとさ」
「神血の御酒?」

 聞きなれぬ言葉に、雷蔵がきょとんと鸚鵡返しに呟く。
 美吉は頭を掻いた。

「俺もよくわかんねぇんだけどな、あれを呑むことによって『真理』に近づけるんだと」
「『真理』って……何の?」
「それがよく分かんなかったんだって。どうもあいつらの『教義』らしいっつーことまでは分かったんだけど」
「『教義』ねぇ」

 雷蔵の脳裏にふと行尊の怜悧な横顔が過ぎる。

「すると、あの朱塗りの盃を持った人間だけがその『教義』とやらに認められるのかな?」
「まぁそんなところだな。要はあの朱塗りの盃が正式な信者の証なんだと。ところがどっこい、こいつが大層な高値で、大枚を叩かんと手に入らんらしい。そんで金のない貧乏人たちなんかは高利貸しから借金しまくるらしいんだが、それで首が回らなくなるってどころか、それでも借りに来る奴が絶えず高利貸しの方が回らなくなってるって話だ」

 お喋りな茶屋の婆さんがぺらぺら話してくれたよ、と美吉が言う。雷蔵は岩肌も露な地面を黙然と見つめた。
 成る程、だからただのかわらけを持った者たちは無視されていたのか。小判を手に、服装も貧しげな者達が、盃を買う場面が脳裏に甦る。

「そうまでして手に入れる価値があるものってことかな」
「か、あとは妄信的に信じ込ませるほどの何かがあそこにあるってことか」
「いずれにしても、いかにも詐欺っぽい話だね」

 分かっていつつも上手く乗せられてしまうのが人間と言うものだ。それとも、それほどまでに精神的に追い詰められていたか。

「でもこれだけの人数の旅僧や旅人が拘留されているって言うのに、巷では全然噂になっていないところがまた不思議だ」

 旅する人間は何も、旅芸人や武芸者や行脚僧に限ったわけではない。飛脚をはじめ、託を伝達する使者や、使命を帯びて派遣される者もいる。彼らを片端から捕まえていれば、必ず音信の途絶えたことに疑問を持った人間が捜査を行うはずだ。
 ところが少なくとも雷蔵が道中で聞いた限りではそんな噂はちらとも聞こえなかった。

「俺もそれを妙に思ってたんだが、多分理由はあれじゃねぇかな」
「あれ?」

 ああ、と美吉が胡坐をかいた膝に片手をつき、もう片手で顎をなでる。

「毎度毎度、あいつらが『尋問』とかいって、一人ずつ牢から連れ出してくんだがよ―――ところがこいつが、一人も帰ってきたためしがないんだな」
「噂にならないところを考えれば、殺されたわけじゃないんだろ」
「そうだと思うんだが、別のものを“消された”のかもな」
「例えば―――記憶、とか?」

 美吉が「ご名答」と人差し指を向ける。

「確かに、一時期の記憶を操作できる方法はいくらでもあるけど」

 美吉はその言葉に頷きつつ、

「あるいはそのなんらかの方法で記憶を操作して、何事も無かったかのように処理しているとかな」
「間者かどうか調べるためとはいえ、随分手間で大掛かりなことだね」

 恐らく『尋問』と称して自白を迫り、間者であれば足が付かぬように『抹殺』、反応を見て無実となれば記憶操作して放逐する、といったことでも繰り返しているのだろう。
 すなわち裏を返せば、

「それほどまでに知られたくない何かがある、ってことだな」

 確信を深めて、美吉が言った。
 雷蔵は否定するでもなく、ところで、という風に一瞥を向けながら訊く。

「あの中には入ったのかい」

 もちろん〈寺院〉のことだ。

「いんや」

 美吉はあっさりと首を振った。

「意外に警護が固くてな。この屋敷に忍び込むのも容易じゃなかった。“視”ようにも距離があるせいか上手く映らなくてな。連れて来られた奴らは皆地下に連れてかれたが、肝心の地下への扉も、これまた厳重な警戒を敷かれている」

 雷蔵は黙り込む。美吉の言い方はいかにも軽いが、雷蔵は美吉の実力をよく知っている。どれほど面倒くさがりといっても、彼ほどの腕があれば並大抵の障害は意味を成さない。ということは、相手側の防御とやらが異常に強固だと言うことだ。
 たかだか個人が所有する新興の寺院だというのに。

「それで捕まったわけ」
「わざと捕まってやったんだよ」

 嫌そうに眉を寄せ、美吉は訂正を入れる。虎穴に入らずんばって言うだろ、と。

「そういうお前こそ、なんでここにいるんだよ」
「こっちも色々あってさ」

 雷蔵は今までの成り行きを適当にかいつまんで話した。
 聞き終えた美吉がふぅん、と鼻を鳴らす。

「んで、そのなびきとやらが、さっきの女?」
「そう。別のところ連れてかれちゃったけどね」

 やれやれと肩をほぐす雷蔵へ、美吉が眠たげな両瞳を更に細め、尋ねる。

「何者なんだ?」
「さて。何故か一緒に連れてこられたけど、多分何かあるんだろうね」

 行尊たちが現れる前になびきが言ったこと、あるいは家老屋敷の敷居をまたいだ時になびきが言いかけたことを思い起こし、雷蔵は軽く天を仰ぐ。美吉は重ねて尋ねた。

「出るか?」

 どこへ、などと愚問はしない。雷蔵は微笑んだ。

「そうしたいところだけど、ほら」

 おもむろに指を鉄格子に向ける。いや、正確にはその錠前に。

「気づいただろ。あれには、(しゅ)がかかってる」
「用心深いもんだ」
「用心深すぎるよ―――徒人(ただびと)用にしては」
「いかにも“お前”が来ることが分かってたみたいだな」

 美吉が雷蔵に限定するのは、他の房はおろか、雷蔵が来る以前はこの牢房も、呪がかかった錠を用いていなかったためである。

「嫌な感じだね。誰かに嵌められている気がする」
「あながち気だけじゃないかもな」

 美吉の言葉は恐らく九割がた真実を突いている。おまけに雷蔵には心当たりがあった。

(あの時感じた視線―――

 二日前、この町に入る直前の山中で刹那だけ察知したあの視線が、雷蔵の予想通りの人物であるとするならば。

(できれば会いたくないものだけど)

 珍しく厭わしさを露わにし、雷蔵は嘆息する。

「まぁ〈秘伝〉を使えばなんとかならないこともないけど、あんまり気が乗らないな」
「そうさなあ。バレたらめんどくさいことになるのは目に見えてるし」
「鍼は?」

 雷蔵がふと思いついて美吉を窺う。
 美吉は鍼師だ。それも天性の才を持った。その腕は医師としてだけではなく、忍びとしても一流であることは雷蔵も認めるところである。しかも美吉の場合、人体は言うに及ばず、あらゆる物体の経穴経絡を見極めることができ、それを鍼一本で自在に操作する。例えば、ある物の決まった“経穴”に鍼を打つことで、その物を瞬時に粉砕することもできる。そういう能力に長けた者だった。
 武器となりそうなものは取り上げられているだろうが、美吉のことだから見えぬ所に仕込ませているだろう。
 だが、その彼は心底嫌そうに叫んだ。

「俺がやんのかよ! 嫌だよそんな……」

 だが皆まで言い終わらずに声が急に尻すぼみになる。目の前の、満面の笑顔を目にしたからだ。

「美吉」
「い、いや。ええっとだから」

 美吉の表情が引きつり、そわそわと視線が逸らされる。彼の前では依然雷蔵がにこやかに見ている。一見邪気の欠片も無い顔だが、美吉はその裏にあるものに恐れを抱く。なんだか分からないが、雷蔵のこの笑顔を見るたび得体の知れぬ薄ら寒さが走るのだ。逆らえば何をされるか分からない。とりあえず逆らうなと危機回避本能が囁く。しかし無理難題というものもある。言葉を選ぶ美吉の背に冷や汗が流れた。

「別に面倒なだけじゃなくてさ……普通の錠ならともかく、呪がかかってるだろ。木でできてるならまだしも、同じ『(ごん)』同士だからな。俺そもそもこういうの苦手だし、どこまで力消耗するか分からないから、あんまりやりたくねぇんだよ」

 と弱々しいながらも一応の弁明を試みる。
 美吉が言っているのは、五行の法則だ。森羅万象を木火土金水の五つの元素で説明する理。その中で、金だけが木を剋すことができる。ゆえに、例えば格子が木製であればあるいは呪を破ることも容易いが、属性が同じものであると対抗力も同等であるため、話は別になってくる。下手をすれば共倒れだ。美吉も呪力を持っているが、“そちらの方面”にはさほど精通してはいなかった。

「そういうお前はどうなんよ」

 無理やり矛先を転換をするように、美吉は話を振る。

「確か前一度やったことあっただろ」

 美吉の指していることを悟り、雷蔵は思案顔で格子を見やった。 

「確かに鉄を溶かすことのできる薬はあるよ。でも多分無理だね。美吉じゃないけど、錠を通じて格子自体が呪で覆われてるから、十中八九効かない」
「やっぱりか……」

 美吉は諦めたように唇を引き結んだ。だが、まとう雰囲気からはあまり危機感というものを感じられない。
 雷蔵は再び斜め上方を見やりながら、顎に手を当ててうーんと唸り、

「仕方ない、正攻法でいくか」

 と宣言したのだった。
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