2.木の上にて



 雷蔵は夜空を見上げながら、一人黙考していた。木立の合間から覗く月は円く、柔らかな光を放っている。
 今宵は中秋の名月よりも少し早めの長月十三夜。やや肌寒さを感じさせはじめる秋空は、その分冴え冴えと澄み渡っている。虫の音が涼やかに渡り、森林独特の清香が立ち昇って、春の巡りとはまた異なる趣を湛えていた。
 雷蔵は太い枝の上で組んでいた足を入れ替えた。
 枝の遥か下方では先ほどからウフンだのアハンだのといった声が聞こえてくる。
 腕に琵琶型の楽器を抱きかかえながら、この事態をどうしたものかと思案する。
 日が暮れてきて野宿をするために森に入った。それはなるべく人目を避けるためだったのだが、一人で月でも眺めながら一曲、と思ったこともある。
 夜空がよく望める樹の上に腰掛け、さぁいざ弾かんとしたところでやにわに男女二人連れが訪れたかと思うと、頭上にいる人間の存在にも気づかずにあれよあれよと事に及び始めてしまった。
 微妙に姿を現す機を失い、しかもこうなっては今更存在を主張するわけにも行かず、結局そこを動けないままジッと居心地の悪さに耐える羽目になった。 
 元々艶事にさほど関心のない雷蔵にとっては、他人の情事を見せられたところで嬉しくもなんともないし、見学する気にもなれない。兎に角彼らがさっさと満足して去ってくれることだけを願う。

 雷蔵は気だるげに嘆息しながら暗色の天を仰いだ。
 これから何処へ行こうか。
 追ってくる透波者から逃げるため旅をしているわけだが、結局ただ行く当ても無くフラフラと彷徨っているのが現状だ。時折何のために生きているのか分からなくなる。生きてこうして逃げ続けていることに意味はあるのだろうか。

 だがその問いもすぐに泡沫のごとく浮いては消える。どちらにしろ、どうでもいいことだ。とりあえず今生きているのだから、生き続けるだけ。そこにあるのは生きるという本能のみで、何の感慨もない。
 やたら鼻の利く刺客たちは煩わしいと思うが、こればかりはどうしようもないことも分かっていた。
 懐から古びた巻物を取り出し、月明かりに晒す。
 捨ててしまえば楽なのだろう。が、そう簡単にはいかないのがこれの厄介なところだった。何せ、捨てても捨てても必ず手元に戻ってくるのだから。かつて何度も試してみたが、燃やそうと川に投げ捨てようと地中に埋めようと、次の朝起きると必ず枕元に戻ってきている。
 まるで巻物自身が意思を持っているようだ、と思い、その愚考に苦笑する。意思を持っているようだ、ではない。実際に生きているのだ、これは。

 己の主たる者を見定める、森羅万象のあらゆる法則と摂理が記された書。資格のない者がいたずらに私欲で利用しないように内には『(もり)』が宿っている。それだけで、これは神霊に準じる存在だ。
 これに見限られない限り、自分はこれの主だ。そして持ち続ける限り、際限なく刺客に狙われる。
 不毛の連鎖だが、抗いようのないものにあえて抗うような苦労はしないのが雷蔵という男だった。
 あるいは、こうして透波からこれを守り逃げ続けることが、唯一自分をこの世に留めるもの―――生きる理由となっているのかもしれない。

 巻物を仕舞い、凝りを解すように首を反らす。
 そうしてすることもなしにぼんやりと月の文様を辿っていると―――

 視線。

 ばっと身を起こす。素早く目を走らせた。
 樹から飛び降り、背後できゃあと声が上がるのにも気に留めず周囲に気をめぐらす。
 並び立つ木陰。欝蒼と茂みを広げる草陰。
 しかし、気配はとっくに跡形もなく消えていた。
 微睡みから覚める寸前の夢のごとく、覚めたとたん消えてしまう、霞がかった感覚。
 ともすれば気のせいだったかと思ってしまうような。だが。
 ほんの刹那、幽かにだが確かに感知した。
 覚えのある気配。
 どこかで知っている。

(あの気配は―――

 眉を顰めて雷蔵は暗く広がる闇の彼方を仰ぎ眺めやった。
 その佇む後ろでは、突然何処からとも無く降ってきた僧侶に度肝を抜かれて呆然とし、自分達のあられもない有様に恥と焦りで慌てて服を身に着けようとする男女の姿があった。
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