忘れられない光景がある。
眼裏の奥に烙印のように焼き付けられた光景。
赤と死。数え切れぬ「死」を自分はこの瞳で見てきた。この忌まわしい眼で、ずっと視てきた。見たくもない真理を見せ付けられた。
否が応にもそれは自分に訴える。お前は異形だと。ただ視ていることだけしかできぬ、哀れで無力な存在だと。
目に映る中で、実際触れている腕の中で、少しずつ冷たくなっていく身体。生命が、鮮烈な赤とともに流れ出てゆく。
それが分かるのに、何もできない自分。それが分かっていたのに、何もできなかった自分。
手や腕や腿や膝を伝い落ちてゆく流れとともに、自分自身の血潮もまた、ゆっくりと地に染み込まれて行くような気がした。
忘れられない光景。忘れられるはずのない情景。胸に開いた虚無の穴。
天を仰ぐ。
片目に滲んだ熱は、果たして涙だったのだろうか、それとも―――




1.ぶつかり合うも不少の縁



 山道を、一人の若い法師が歩いていた。
 旅用の風呂敷包みと、単輪十二環の錫杖を手に、いかにも気怠い足取りで降り積もった褐色の落ち葉を踏んで行く。目蓋を半分落とした瞳は眠たげで、焦点が茫洋としている。
 凡そ士気とは無縁とばかりに肩を落とし道行く様は、肩で風を切るというよりもそよ風に撫でられているかのようだ。
 何がそんなに詰まらぬのか皆目見当付かないが、大変退屈そうである。季節は晩秋だというのに、まるで春のまどろみのごとく、惰性の奔流が見る者の力をも吸い取らんばかりだ。
 つまるところ、それだけ法師は全身から倦怠的な雰囲気を醸し出していた。しかし当の本人はといえば、そんなことは何のその。
 にわかにその腹部から、更に気の抜けるような音が響いてきた。

「あー、そろそろ何か食べないとなぁ」

 面倒そうに一人ごちる。そういえばここ二、三日ろくにものを食べていない。しかし恵んでくれそうな人もいない。むしろ周りには人っ子一人いない。だから法師も気にせず大きな独り言を続ける。

「何か落ちてないかなぁ」

 呟き、目を落としたところ、ふと道端の小さな祠が目に入った。地蔵だ。赤い首掛けの下には数輪の花と、僅かに水の入っている端の欠けた茶碗、そしてお約束のごとく幾許かの饅頭が慎ましやかに供えられている。
 地獄に仏、と心中で漏らし、腹の虫の命じるままにそそくさと近づく。
 祠の前にしゃがみ込んで、意味深な笑みを刻む地蔵菩薩に向かってじっと敬虔深く合掌した。瞑目する中で師の言っていた言葉を思い起こす。
 彼女はよく言っていた。御仏は困っている人々を助ける存在。今まさに目の前で困っている人間を見捨てはしまい。よもや供物を頂戴したところで、人一人の命が救われるのだから罰を当てるなどという狭量なことをまさかするはずはなかろう。
 ちなみに彼女は同様の理屈で、離俗の身でありながら肉を食す理由に「仏は肉のうちに宿るもの。これは決して肉を食すという破戒行動ではなく、肉に宿る仏を我が身の内に取り込む神聖なる行為なのだ。ああ有り難や。南無阿弥陀仏」と言って実に美味そうに喰っていた。
 つまりこの目前に積まれた饅頭は、飢えている自分へのお恵みであり、これを頂くのは決して罰当たりな行為ではないのだと都合の良いことを胸の内で念を押してから、誰もいないことを確認して、躊躇せず白い弾力のある甘味に手を伸ばし、次々とむさぼり始めた。

「おお、生き返る」

 爺臭い台詞を吐きながら口の中に広がる甘味を噛み締める。風靡に晒してあったためやはり多少硬いが、腹に入れば関係ない。これで当分は持つだろう。
 だが法師は食べることに夢中のあまり、来た道とは逆の方から迫ってくる気配に全く気づかなかった。
 すっかり堪能して、ナムナムごちそうさんと唱えながら手を叩き立ち上った瞬間、
 横合いから思い切り張り飛ばされた。

「うわ!」
「ああ!」

 よほど急いでいたのだろうか、相手も道端に蹲る法師の姿に気が付かなかったらしい。唐突に視界に出現した影に驚きの声を上げ、なすすべも無く激しく衝突する。反動で互いに派手に弾け転んだ。
 後ろに引っ繰り返ると同時に、おのおの手に持っていた風呂敷が地面に投げ出された。

「いっつー……」

 四つん這いになりながら打撲箇所を押さえ、法師は涙目で唐突の襲撃者の正体を見定める。
 やはり似たような姿勢で、剃髪した頭部を晒し悶えるその人物は、同じく墨染めの衣を纏っている。多少の服飾の違いから宗派の異なる僧と判じるが、相手はそんなことに気を回す余裕もないとばかりに、ハッと我に返ると慌てて立ち上がり荷物を掴み拾った。
 その時この僧侶は、荷が先ほどに比べ重くなっているように感じたが、それよりも先を急く衝動のほうが勝り、気のせいだと思い込むことで一目散に駆け出す。
 ぶつかった相手を一瞥することも、謝罪の一言も無くあっという間に遠ざかる法衣に、若法師は地面に座り込みながら呆然と見送った。顔を顰めながら頭を掻く。

「なんだ、ありゃ」

 半ば憮然と呟いて、腰を浮かす。付いた土埃を叩き落としつつ、無残に投げ捨てられた風呂敷包みを拾い上げた。そして、ふといつもの馴染みよりやや軽くなっていることに違和感を抱く。
 疑問顔で、中を覗く。
 沈黙。

「ああーーッ!!」

 法師は声を上げた。
 風呂敷の中身がすり替わっている。いや、そもそも荷自体が自分の物ではない。
 そして思い起こす。先ほどの僧侶が持っていった荷物。
 あれだ。
 転んで放った際、混同してしまったのだろう。かの僧侶が反射的に掴んだほうが、自分の風呂敷包みだったのだ。無地の藍布はどこにでもありふれたもので、ぱっと見は見分けがつかず、間違って持っていかれてしまった。
 まずい。非常にまずい。あれがなければ困るのだ。あの包みには自分が今まで記してきた膨大な知識の覚書が入っているというのに。いや、それよりももっと重要なものが入っているのだあれには。
 だが心中とそれに相応する事態の緊急さとは裏腹に、法師は凡そ焦燥感や緊張感の欠片もない態度で佇んでいた。
 あーあ、と顔を面倒臭そうに顰め、かの僧が走り去った道の向こうを眺めやる。すでに姿はない。たしかこの先には何回か分かれ道があるから、そのいずれに入ったかを突き止めるとなるとやや手間がかかる。途中であの僧が荷が違うことに気づいて戻ってくることを期待したいものだが、あの慌てぶりだとそれも望みが薄そうだ。
 手の中の風呂敷に眼を落とす。どうするんだこれ、と途方にくれながら、ふと隙間から顔を覗かせる物体に眼を留めた。妙に気を引かれ、包みを開いてみる。
 中からコロリと出てきたのは、
 朱塗りの底に四つの金の輪のが描かれた小さな盃だった。
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