11.火の国



 慎重に歩を進めていくと、やがて遠方に幽かな光を捉えた。道の果てか。
 ぽつりと小さな穴。まだ大分離れたその向こう側に、ちらりと赤が踊る。
 煌煌と橙に、或いは朱に移ろう輝き。輪郭を金で縁取る、美しい緋色。それを目にした途端、それまで隣から感じていた空気の色が突如として変じるのを、雷蔵は感じた。
 いつもは怠惰で緩やかな気が、軋みを上げるように乱れる。見慣れた長身を瞳だけで見上げれば、いつになく硬い横顔。歩むにつれ、それが徐々にこわばっていくのが見て取れた。



 美吉は双眸を見開き、食い入るようにその赤を見ていた。
 心の奥底の記憶を揺さぶる赤。否応なく視界を捉える鮮烈な輝きに、瞬きすら忘れる。思い出したくないものを呼び覚まそうとする。
 自然と足が止まった。
 その先を恐れるかのように、美吉は立ち尽くす。だが瞳は先に釘付けになったままだ。
 魅入られる。その凄絶な色に。
 捕われる。
 知らず、挙げられた片手が左の目に沿う。
 まずい、と警鐘がしきりに鳴る。鼓動が早鐘となって鳴り響く。
 早く目を逸らさねば。
 見えぬそれに、捕らえられてしまう。
 見えぬはずのそれが視えてしまう。

 熱い。
 あつい。
 眼が燃えるように―――


「美吉」


 にわかに耳朶を打った声と、ドンッと小突かれた衝撃で、遠くに行きかけた美吉の意識が戻る。
 さっと、その針穴ほどの孔から目を逸らした。
 名の響きに呼び戻され我に返った美吉の表情は、しかしすこぶる悪い。

「大丈夫かい?」
「ああ……」

 どこか畏れを宿す頬を俯かせ、顎に伝った汗を腕で拭った。
 危なかった、と心中でぼんやりと漏らす。

 ―――危なかった。もう少しで、“あちら”に持ってかれるところだった。

 未だ驚く心臓をなだめるように、ぎこちなく息を吸う。呼吸の仕方すら忘れていたようだった。
 雷蔵が“()”をを口にしなければ、戻ってこれなかったかもしれない。
 己を捉え、自身を実感するように拳を握り締める。
 雷蔵はその様子を見やりながら、口を開く。

「やっぱり君は先に」
「いや」

 言い差す声を遮り、美吉は手を振ってその意見を拒否した。

「……大丈夫だ」

 両目に掌を当てじっと閉じる。ふう―――と長く息を吐き、気持ちを整えるようにして、のろのろと体勢を戻した。
 まだ引きつった表情で左目に手を当てたまま、しかし口調は確固として言った。

「悪ぃ。“あれ”を携えずに蹈鞴(たたら)場に近づくのは久々だったからな……引き込まれかけたが、もう平気だ」

 前方を睨み据えながら、不安定に乱れた気を理性の力で落ち着かせる。
 二呼吸もすればいつも通りの調子に戻っていた。

「だがこれで分かったぜ。不快極まりないが、あいつらしっかり〈神降ろし〉の儀式して鋼を鍛えてやがる」

 左目は依然押さえたまま笑みを浮かべる美吉は、無理に虚勢を張っているようにも見受けられた。だがあえて気づかなかった振りをして、雷蔵も感情を殺いだ双眸を遠い果てに向ける。
 今や鉄を打つ音は高らかに響き、鉄を溶かす炎の熱が確かな熱風となって頬を打ってくる。ざわめきの中に鉄を鍛えるときの踏鞴唄が交じり、その声々の反響から、そこが広く大きな洞となっていることを窺わせた。
 雷蔵の気遣う言葉も押し切るように、美吉が断固とした足取りで進み始める。その様子に雷蔵もそれ以上の忠告は無駄と悟り、黙ってあとに従った。

 出口が近づいてくる。いよいよ熱気が強くなった。
 穴の影に隠れながら、そろそろと首を伸ばせば、そこは地中深く穴を掘り下げてつくられた、巨大な空間だった。
 雷蔵たちの通ってきた道よりも更に地下に大きな土釜がいくつか並び、そのどれもから炎が勢いよく燃え上がっている。釜の左右では大きな天秤(ふいご)を何人かが踏んで空気を送り込み、高熱に焚かれたその根元の湯路穴からは、ところどころ黒く、橙に輝く(ずく)鉄滓(ノロ)が熱泥の川をつくっていた。
 視線を横にずらせば、生成された(けら)の塊を釜炉より引きずり出し、大きな錘のようなもので砕いて、小分けにして運んでいる。確か大胴場(だいどうば)というのだったか。玉鋼(たまはがね)をつくっているんだ、と美吉が呟いた。
 視界の先を追うと、砕かれた鋼の塊は、鉄を鍛えている人々のところへ次々と運ばれていく。鍛冶(かぬち)場だ。
 甲高い鉄鳴りの音のもとはこれだ。
 美吉は辛そうに眉間に皺を寄せている。
 場を満たす神気が強い。蹈鞴の神、そして鍛冶の神といえば金屋子神(かなやこのかみ)である。
 『地気』は管轄外の雷蔵ですら、空間を占める圧倒的な神威を感じる。況や美吉においては息苦しいほどだろう。
 一体どのようにしてこのような古法に近い〈神降ろし〉をしえたのか。だがそんなことは今はいい。

 雷蔵は更に目先を上に移す。
 炎による煙は長い煙突を通って地上に突き抜けているようだ。そういえばここへ連れて来られる前、屋敷のすぐ裏手にある山から、細く立つ煙を見かけた。その時は山作(やまつくり)―――樹木の伐採などを生業とする者が炭焚でもしているのだろうと思ったが、なるほど正体はこれだったのか。
 他にいくつもある坑道から、しきりに鉱石が押し車に乗って運ばれてくる。
 地下では多くの人間が忙しなく動き働いていた。
 左右に意識を配る。まるで大きな鍬でそこだけ刳り抜いたかのように、地中に突如現れた広大な空間。雷蔵たちの歩いてきた道は、その丁度垂直に切り立った岩壁の中間に位置し、出口から先は崖がぐるりと空間を抱き込むように一巡している。更にその円形の壁に沿って、桟橋のごとく狭い通路が囲み、鉄の手すりがつけられている。
 おそらく指揮者などがここから製鉄の一切を見下ろし、監察できるように作られているのだろう。

 ふと熱風の中に別の風を感じる。
 炎は新鮮な空気がなければ燃え続けない。外気を絶え間なく供給するためには、どこかに大きな通気口を設けなければならないはずだ。
 と思って上方を見やれば、煙突の回りところどころに孔が開いている。

(あそこじゃさすがに逃走路には無理か)

 断念したところで、不意に風に乗って耳に人の話し声が聞こえてきた。
 しかも、女の。

(おい)

 雷蔵の目線の下で跪いて様子を窺っていた美吉が、上目遣いで囁いてくる。雷蔵は頷き返した。女の声、となればなびきである可能性が高い。
 蹈鞴場や鍛冶場には、直接女は踏み入れられない。それは製鉄の神である金屋子が女神であるからともいわれるし、またそもそも女性は月事や出産で、血の穢れを常に伴っている存在とされているから、女が神事の場に入ると穢れる、と忌まれているのだ。
 しかも美吉の言を借りるならば、古来の風習である〈神降ろしの儀〉までしっかり行っているほどだ、そのあたりも掟は厳密に守られていると考えていい。
 つまり下で働く人間の中に女はいないわけで、となると必然的に声の主は絞られる。

(下の蹈鞴場ではないはずだ。声はもっと近かった―――とすると、この階層のどこか)

 声の聞こえてきた方に目を巡らすと、道の向こう、壁側に穿たれたいくつかの孔―――恐らくそれらのうちいくつかは坑道の出口ではなく、室なのだろう―――の中で、ひとつ人の気配のするものがあった。雷蔵達がいる道の孔より、左へ三つ目である。意外に近い。

「美吉、路傍の術は?」

 雷蔵が空気だけで問えば、誰に言ってんだ、と返ってきた。
 路傍の術は気配を絶つのではなく、周辺に自分の気配を同化させる技の一つである。自然と一体化して気配を溶け込ませ、相手に気づかれにくくする。人は通常、道端に落ちている小石をあまり意識しない。それはそこに意味を見出さないからであり、そういうものに対して人間は往々にして無関心となる。この心理を利用した技であり、路傍の石になぞらえ路傍の術と呼ぶ。
 道教などの方術でも隠形と呼ばれるものがあるが、それもつまるところ同様の心理を逆手にとった術である。自然に反して気配を殺すよりも無理がない分気づかれにくい。だがそれだけに実行は困難を極める。純粋に技量に左右されるので、武芸鍛錬者にとっては究極中の究極の技のひとつだった。 だが今回は、一旦表へ出てしまえば身を隠せる場所が無い。人目につく状態では気配を消すという行為はあまり意味をなさない。そういう場合には路傍の術の方が適しているのだ。

 二人は呼吸を整えた。心を凪がせ、無にし、徐々に気を周りと同化させていく。己が透明となってゆく像を脳裏に描く。
 やがてどちらともなくそっと足を踏み出し、目的の孔に忍び寄った。覗き込めば、中は室のようになっていた。室の奥では珍しい足つきの椅子に腰掛ける行尊と、室を囲むように群がる僧兵。そしてその中央になびきがいた。当たりである。よく見れば先ほどすれ違った壮年の僧侶達も、走ったためか汗を流しつつ、やや青い顔をして行尊の背後に立っていた。行尊は入口側を向いた状態であり、こちらからはなびきの背しか見えない。
 何か言い合いをしているようだというのは、会話から知れた。
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