4.揺れる炎に映る影は



 高らかな哄笑が、がらんどうの堂内に反響する。
 明り取りに照らされ浮かぶ女の姿は、美しい見目と巫女姿―――巫女というよりはむしろ白拍子に近いような気もするが―――にも関わらず、御子という号の神々しさとは到底掛け離れた禍々しさを纏っていた。
 ぞっとするほど妖艶な瞳を、その眼前の者に当てる。

「本当に―――面白いことを言う坊主だね」
「お褒めに預かりまして」

 あやめを見据える目はそのままで、雷蔵はさしたる感動もなく言った。

「そういう君こそ、堅気の人間にはとても見えないけどね。―――その道でもないのに空蝉(うつせみ)の術の名を知っている人はそうそういないよ」

 空蝉の術は忍び独特の技だ。攻撃を受ける寸前に、別の物体と摩り替わってあたかも攻撃を受けたかのように見せ、敵の油断を狙う。そのためまたの名を替わり身の術とも言い、忍びの間では一般的な忍術でもある。
 雷蔵が使ったのは実際の空蝉ではなくいわばそれの応用なのだが、それにしても見てすぐさま空蝉と口にできる人間は普通いない。

「当たり前じゃ。妾はそのあたりに転がっている並の輩とは違うゆえの」

 あやめは傲岸不遜に言い捨てた。
 それもなんか違う気がするけど、と雷蔵は小さく呟いたが、巫女は気にしない。

「妾は能無しの人間共とは違う。あやつらは愚かじゃ。少し甘い言葉を囁いてやれば、なんなく堕ちる。簡単に罪を犯す。お前を連れて来たあの男とてそう―――己がためならば、他人を犠牲にすることすら厭わぬ。憐れじゃのう。まことに憐れで愚かじゃ。だから操りやすい」
「まぁ、人間っていうのは概ねそんなものだけど」

 ふ、とあやめは唇を歪める。

「お前も見かけによらずよう人の闇を知っておるようだの」
「そういう世界で生きてきたものでね」

 そう言い、雷蔵はすうっと瞳を細めた。

「それで、君の目的は?」
「さて、な」
「年若い連中ばかり集めてどうする」
「知りたければ、妾に付いて来るがよい」
「生憎だけど、呪事(まじないごと)の生贄になる気はないんで」

 雷蔵の言葉に、巫女の柳眉がぴくりと動く。
 ごく僅かなその変化を雷蔵は見逃さなかった。

「……よう分かったの」

 あやめの笑みが邪悪に染まり、より一層色香を増す。艶やかな黒髪がざわりとゆらめいた。闇の中であるのに、彼女の背後から立ち上る闇色の気が見えるようだった。
 雷蔵は自然な動作で下腰を低くした。

「ここの気はすごく嫌な感じでね。―――まるで魘魅でも行った場のようだ」

 呪詛のみといわず、他者に障りを与える術を行った場には総じて独特の気が付き纏う。行いが行いなだけに、周囲に漂う憎悪や怨念などが集まりやすい。こと(まじな)いの力が強ければ強いほど悪いモノたちが集い、やがて瘴気を生ずる。
 雷蔵はあれらの村や今この堂の中に漂うものの原因を嫌というほど見知っていた。
 これは間違いなく何者かを―――それもかなりの数の―――呪い殺した、血の臭気だ。殺され、浄化できず漂う霊魂の恨みの声と、大気に潜む魑魅魍魎の気配。
 雷蔵は過去に何度か『そういう』場に居合わせることがある。いや、むしろ何度も体験せざるをえない情況にいた。
 雷蔵の属していた忍びの里には呪術や妖術の研究を専門とする所があり、里の中では陰陽寮の通り名で知られていた。妖しの術の類は忍びの世界でも外法として利用されており、対抗手段として呪術と幻術の体得を課せられた雷蔵は必然的に陰陽寮案件に接する機会が多かった。
 そしてその中で得られた真実は、信じがたいことに呪詛を行う輩、そして妖術を駆使する者のいまだ多いことだった。
 こびりつく血の臭い。
 耳の奥底に響く怨嗟の声。
 否が応にも入り込んでくる悲鳴。断末魔。
 緋い涙を流す、人にはあらぬモノたち。
 恨み、憎しみの塊。

 くるしい。にくい。ころせ。ころして。

 頭の中に入ってくる声を、雷蔵は目を閉じることで振り払う。
 襲い来る頭重感と倦怠感。勝手に脳裏に映し出される念の記憶と欲は何度経験しても慣れはしない。

「ふふ……まさにその通り」

 長い白袂で口元を覆いながら、あやめは答えた。

「何人殺した?」

 淡々とした声で、雷蔵は問う。

「さて、とんと忘れてしもうたわ」
「そうかい―――では、何人の村の人間を贄にした」

 くすくす、と笑い声。

「そうじゃなぁ、まだ半分は残っておるぞ」

 さも楽しげに、赤い唇は応えた。

「若く精気に溢るるとはいえども、只の人間では僅かももたぬでな。―――やはり『力』を持つ者でないと対価は勤まらぬようじゃ」

 そう嗤って、含みある視線を目の前の法衣に向ける。
 無言のまま、雷蔵はひたと闇に照らし出される巫女姿を射た。
 そして静かに、だがはっきりした声で言った。

「妖のものに取り込まれたか」

 瞳に映る巫女の姿に、重なって見えるもの。紙燭の火影に照らされ、映し出されるそれは、異形の影だった。

「違うぞえ。妾は自ら喜んでこの魂を差し出したのじゃ」

 誇らしげに胸を張りあやめは言い切った。

「別にどちらでもいいけどね―――この愚行を止める気があれば」
「止めたくばそうしてみせるがよい―――止められるものならばな」

 あやめが妖艶な動きでゆっくりと袖を広げる。途端、周囲に漂っていた邪気がざわりと波打った。気配があやめを中心に収束してゆく。
 雷蔵は左の拳から人差し指と中指を揃えて伸ばした。刀印ないし剣指と呼ばれるこの形はその名の如く刀剣を模しており、立てた指先に気を集めやすく、術を行使する際の最も基本的な印である。
 印を結ぶ左手を顔の前で構え、残る手でさりげなく得物を手繰った。錫杖は連れて来られた時にどこぞへ遣られたらしい。あるのは数ヶ所に忍ばされた針と手裏剣、苦無(くない)に、形ばかりの独鈷杵。
 そして懐にある、古ぼけた巻物だけだ。
 あやめの姿がふっと一瞬揺れた。
 次の瞬間、白い衣が宙をゆるやかに舞う。
 刹那、雷蔵は苦無を繰り出していた。目で追うことを許さぬ速さで地を蹴り、対象に迫る。
 キィンと耳をつんざく金属音と、硬い手応えに、ハッと雷蔵は目を瞠った。
 白い衣を引き裂こうとした(くろがね)の刃は、目前で銀光発するもう一つの刃に受け止められていた。
 闇の中から嘲笑が響く。

「お前の相手は、妾ではないぞ」

 ふわりと、無垢の着物が床に舞い落ちる。
 巫女の姿はどこにもない。
 しかしそれよりも、雷蔵の目は眼前に現れた人物に釘付けになっていた。
 赤味がかった散切りの長い髪。そして闇に忍ぶ者の象徴である藍紺の装束。
 何より、同じ年の頃の勝気さがよく表れたその相貌を、忘れるはずもない。

「久しぶりだな」

 剣を握ったまま、彼は言った。―――殺気の漲る鋭い眼光のまま。

「佐介―――

 雷蔵は呆然と、その名を呟いた。
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