2.日は昇り雨上がりて



 翌朝、雷蔵は老夫婦の家を後にした。
 歩きながら、あの後に彼らから更に詳しく聞きだした情報を反芻する。
 御子と名乗る者の名前は『あやめ』。妙齢の女であるという。しかしそれ以外誰も詳しい彼女の素性を知らない。そうなると『あやめ』という名前も本名かどうか怪しいものだ。

 老夫婦の村から数えて二つ先の集落にある日突然現れたというが、話に聞けばどうやら何処より流れてきた者らしい。あるいは歩き巫女の類かと雷蔵は踏んでいた。歩き巫女、傀儡子、白拍子、呼び名様々の女達は、大半が素性怪しい者達であるが、中には真に霊力を持ち、何がしかの術に心得のある者もいる。ただしその術もいい加減怪しいもので、民間に伝わる妖術や外道の法を使う手合いがほとんどだ。だが却って、そういった人の心理の隙に付け込むような術の方が、人々は信じ込みやすかったりもする。その類に引っ掛かる者が絶えないのも、これが原因だ。
 加えて、このような女術師が一人で旅しているということは少ない。さすがに女の一人旅はこの時世、危険が多すぎる。大方は旅芸人の集団といった、復数人で流浪している。
 これを裏付けるかのように、御子を名乗る女の周りには複数の男の連れがいたという。なるほど、歩き者という線が濃くなった。

 街道に出れば、こんな辺鄙な地でも商人などの人通りは多少あるものなのだが、不思議と人気はなく、広くはないが決して狭くもない道がひどく閑散として見えた。
 そう言えば雨に降られる前に寄った茶屋で一服していた時、同じような旅の二人組が話していたことを思い出す。曰く、この先の街道には最近頻繁に妖が出るらしい。何でも、これまでに旅人が幾度も襲われたとか―――
 雷蔵はその時二人の密やかな話を聞くこともなしに聞いていたのだが、さして真面目に取り合ってはいなかった。しかし今思えばなるほど、ある種妖怪に近しい者が近頃このあたり一帯を支配しているというわけである。人の噂はなかなか馬鹿にできぬものだと、改めて思う。

 そんなことをつらつら考えながら道を行けば、日暮れには次の村に着いた。前の村を出たのが明け方であったから、かれこれ七刻ほど歩き通しということになる。しかし雷蔵の表情にこれといって疲れは見えない。
 村と村の間は相離れること二十里に近い。普通の者ならば、野宿をして二日かけていく道のりである。それをなんと一日でたどり着いたその脚力は並のものではなく、むしろ異常なのだが、そのことを知る者は誰もいない。




 夜闇がひたひたと背後から忍び寄ってくる村に、一足早く踏み入る。己の影が土の上に長く伸びていた。
 途端に襲う違和感。

(誰も外に出ていない)

 この時季の農村の民は、日が昇ると同時に田畑へ出て耕し、日暮れとともに家に戻るのが常だ。この暗さならば丁度皆が戻ってくる頃合いである。
 しかし奇妙なほど静まり返った村の中には、家に帰る者どころか、遊ぶ子供の姿すらない。
 村自体に人がいないわけではないことは、各家々の中の人の気配でわかる。そこはかとなく細く漂う匂いは夕餉の支度をしているものと知れる。
 それにしても異様だ。

(どうも嫌な感じだな)

 前の村では到着が土砂降りの頃であったから気づかなかっただけで、もしかすると同じだったのだろうか。そういえば若者は残っておらず、中年から老人しかいないと言っていた。
 とりあえず旅の法師のふりをして(というのも何やら妙な表現だが)ざっと村の内部を確認する。やはりどこにも寺社は無い。辛うじてそうだったと思わしき建物は発見したが、面影も無いほど廃れていた。
 何より集落を覆うこの不穏な気。そして悪臭。雷蔵は笠の下で僅かに顰めた眉間を緩めた。

(まあ、考えても時間の無駄か)

 ここでいつまでも所在なくしていても埒が明かない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、と心に決めて肝を据えた。
 瘴気と悪臭に酔いそうになりながら、雷蔵は手ごろな家の門戸を叩いた。
 気配はあるのに反応がないので居留守かと思いかけた時、中で小さく応じる声があり、ガタガタッと戸板が揺れた。立て付けが悪い戸の間から、ひとりの老婆がのっそりと顔を出した。やはり老人である。だが、随分と顔色が悪い。
 老婆を目にするや、雷蔵は足を引きかけた。思わず回れ右したくなる衝動を堪える。
 老婆の全身には、ありとあらゆる種類の蟲が絡み付いていた。いや、それ以上に、戸を開けたとたんに溢れた異常なまでの臭気に、頭痛と眩暈が襲う。
 おそらく老婆は気付いていないだろう。臭気も蟲も黒い厭気も、すべて常人の五感では捉えられぬものだ。
 だからこそ感じ取れる者にとってはより強く浮き彫りになる。

「あの……何か」

 顔と同じく陰気な調子で、老婆はぼそぼそと口を動かした。
 あまりにも禍々しい気に中てられそうになりながらも、雷蔵は努めて真面目な表情を作って、

「大変申し訳ないのですが、今宵一晩軒下を宿に貸していただけないでしょうか。雨露をしのげれば結構ですので」

 老婆の目に一瞬胡乱の光が宿る。余所者を訝んでいるのだろう。閉鎖的な村では珍しいことではない。一方では歓迎するし、他方ではこうして排他的な目にさらされる。僧といえど旅人はおおむね怪しいものだ。
 老婆は少しの間少年のような法師の姿を上から下まで嘗めるように見て、それから「ひとまず入んな」とぶっきらぼうに言った。
 嫌がる足を理性で押さえつけながら、あるかなしかの敷居を跨ぐ。むっとむせ返るような異臭、視界を防ぐような黒い塊が、家中に充満していた。辺りには踏むのも嫌気がさすほど数多の蟲の姿をしたものが蠢いている。

(最悪だ)

 内心思いながらも顔には出さず、雷蔵は老婆に従った。背の袋の中で琵琶の弦ががかすかに震え、ピィンと鳴いている。常人には聞こえない音無き音だ。雷蔵は宥めるように軽く丸みを帯びた部分を叩いた。
 家に入ると、老婆一人かと思いきや数人が薄い藁敷きの上に座っている。剥きだしの木の床が寒々しい。うち一人は病なのか狭い隙間に筵を敷いて寝込んでいる。皆一様に青白い顔を、こちらに向けた。うち一人の、がっしりとした体つきの中年の男が口を開く。

「お袋、そっちは……」
「旅の坊さんだそうだ。今夜うちに泊めてくれだと」

 一間いるのは全部で三人。もうひとりは後家か何かなのだろうか、壮年の女であるが、あまりの憔悴ぶりに老女とも見紛うほどである。寝たきりの者も女だったがこちらは少し若い。おそらく男とこの女が夫婦か何かで、壮年の女と老婆が男の身内なのだろう。
 ざっと家族構成を見立て、雷蔵は笠を取り丁寧に頭を下げた。

「お邪魔を致します。一晩軒下をお借りしてよろしいでしょうか」
「そんな遠慮せんでいい。どうぞお上がんなさい。こんなボロ屋で悪いが、布団のひとつくらい用意できる」

 男が気さくな様子で話し掛けてきた。もともと寛弘な人柄なのだろうが、雷蔵は急な態度の変化に違和感を覚えた。
 雷蔵は再度固辞したが、遠慮するなという男の一声で取り下げられてしまった。むしろ軒下で勘弁してくれといいたかったのが本心だ。こんな瘴気の中で寝るくらいなら寒空の下で寝る方がまだ慣れてるしマシである。

 結局男に押し切られる形で、家の中で過ごすこととなった。相変わらず背中では琵琶が鳴いている。かの楽器は存外繊細な性質で、澱んだ空気の中に長く置かれるのを何よりも嫌う。こんなところに放置するくらいなら、浄化するなり何とかしろといったところか。
 それを黙殺し、家族の座る藁敷の上で侘しい食事を取る。忍びは元来節食であるから量の少なさは気にならない。
 第一印象の暗さに反して、意外にこの家の家族は快活だった。姉と思しき人も、疲労の滲む表情を明るくしてもてなしてくれる。ただ一人、老婆はずっとむっつりと口を閉ざしていた。寝たきりの女は喋るのが辛いのか、かすかに挨拶を交したきり何も言わない。

「ご病気ですか?」

 雷蔵の前置きもない率直な質問に、言われた男は何を指しているのか判らずにひとしきり目を瞬かせたが、やがて己の妻のことだと気づいたか、急に憂いを帯びた顔になった。

「去年の歳暮れ頃から寝込むことが多くなって……医者に見せたども原因は分からんまま、治療する手もなくずっとこの状態で」

 と床に伏せる妻へと視線を滑らす。女は己を心配する夫へ微笑み、大丈夫よ、と掠れた声で囁いた。それからちらりと法師へ視線を投げやる。―――本当にごく一瞬のこと。
 しかし雷蔵はそのとき女の愁いた表情から、彼女が自分に何かを訴えようとしているのを悟った。

「少し診せいただいてもよろしいでしょうか」

 雷蔵の申し出に、男がハッと瞠目した。その他の二人も僅かに身じろぐのが気配で伝わる。

「お前さん、医者なのか?」
「薬術に多少心得がある程度ですが、医術も少々」

 謙遜して言いながら、スッと雷蔵は男の隣に蟲を避けつつ膝をついた。失礼と断って、そっと女の喉元に触れる。実際こんなことしなくても、原因は分かっている。脈を計るふりをして、そこに張りついていた蛭を引き剥がす。
 女の身体は、溜まりに溜まったこれらの禍々しいモノに蝕まれ、衰弱していた。
 とりあえず体裁ばかり触診するそぶりをしながら、雷蔵はそっと彼女の顔を見た。目が合う。聡い女だ。唇がかすかに動く。

(“に”)

 音のない、僅かな動きだけで読む。雷蔵は目を眇めた。
 ニゲテ―――
 女はもう一度その動きを繰り返す
 雷蔵は安心させるように小さく微笑んだ。

「ど、どうだ?」

 男が不安げにどもるのに、雷蔵は顔を上げて「申し訳ありませんが、やはり私の手には余るようです」と答えた。

「やっぱりだめか……」
「完全な治療とまではいきませんが、これを日に一回飲ませて差し上げれば衰弱は防げるでしょう」

 そういって懐から袋を取り出す。中には掌に乗る大きさの木箱が入っており、更に中から小さな陶器を取り出した。

「白湯に一撮み入れるだけでいい。それからなるべく小まめに周りを掃き清め、身を清潔に保ち、換気を十分に行えば少しは違うはずです。あとは気の持ち様次第と、運を天に任せるしかありません」

 雷蔵の渡した薬粉はいわゆる滋養強壮剤である。気休め程度だが、しばらくはもつだろう。僧侶のくせに仏と言わず天と表現した自分に苦笑する。まあ所詮天も極楽浄土にいる仏も似たようなものだ。
 男はありがたい、と頭を下げた。しかし顔は落胆を隠せない。それはそうだろう、完全な治療ではないのだから。しかも薬効もその場しのぎだ。ただ雷蔵の言ったことは全く効果のないものではない。要は精気を吸い取っているモノ、そして瘴気からできるだけ身を守ればいい。そしてそれらのモノは、本来こうした簡単な清掃だけで払えるはずなのだ。ここまで溜め込む方がむしろ正常でない。
 しかし雷蔵はあえてそのことは伝えない。どうせ言ったところで信じはしないだろう。

(それにしてもこの匂いだけでも何とかならないものかな……)

 男等の家族に気付かれぬよう目を閉じて鼻元に手を翳す。言うなれば生ものの腐った、饐えた臭いと言うのだろうか―――いや、もっと濃い。生き物の腐敗する臭い。蟲の姿のものならば、不愉快ではあるが女子供ではないので我慢することはできる。だが臭いなどの否が応でも五感を直接刺激するものはさすがに限度があった。この家族のように気づかなければそれまでだが、だからといって害が無いわけではない。身体は確実に蝕まれていく。まずは身体の弱い者から倒れ、床に根付いてしまう。

「お坊さま、こちらにお布団を用意しておきましたので」

 は、と顔を上げる。
 姉の方が三つに仕切られた部屋の内、一番奥まった―――恐らく普段は納屋にしておいているのだろう―――部屋を指している。ふすまの影から白い布団の淵が見えた。
 やはり少し毒気に中てられたようだ。くらりとする頭を叱咤する。
 ありがとうございます、といおうとしたところで、しかしそれは襲ってきた。
 臥せっている男の妻が、目を見開いて叫ぼうとしているのが目に入る。
 項に、重い衝撃が走った。






 男は握りしめた支え棒を両手に、肩で息をしながら、倒れ伏した法師を見下ろした。
 掌にかいた汗で滑らぬようにと強く握りこんだ棒を、今も握ったまま放さない。背にも大量の汗をかき、それが隙間から入り込んでくる冷気に触れてひやりとする。戦慄く男の表情は、己のやったことに対する恐怖と必死さに歪み、鬼気迫っている。そんな男の姿を見上げる姉と母は、怯えたように目を見開いて身を竦ませていた。
 仕方ないんだ、と男は喰いしばった奥歯の隙間から搾り出すように言った。

「仕方ない、仕方ないんだ。あいつを助けるためには、こうするしかない。あんたには恨みは無いが、許してくれ」

 仕方ない、許してくれ、と己に言い訳するように、ひたすらブツブツと呟き続けた。
 男の妻は、あまりの衝撃に弱った心身が耐えられなかったのか、意識を失っていた。
 止める様に伸ばされた、痩せて骨ばった白い腕の下で、あの小さな陶製の薬器が割れ、布団の上に零れていた。 
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