1.旅道には首切り道祖神、旅先には厄神



 道端に立つものを見つめ、法師は眉宇を僅かに顰めた。
 墨染めの旅装束は、彼が行脚僧であることを示している。そして元は浅葱色であったのだろう色褪せた脚袢をつけた足許には、道中の安全を祈る道祖神―――首がない。
 断面も見事に、首から上が綺麗さっぱり無くなっている。その首自体、一体何処に行ったのか全く見当たらない。神を象った像であるだけに、頭がないというのは大層不気味なものだ。誰かが故意にそうしたとも思える姿であった。
 旅の守り神がこのような有様では道行きが甚だ不安である。まるでこの先に待ち受けているものを暗示しているようにも感じられ、法師は「不吉だなぁ」と唸った。
 ふと笠の下から空を見上げると、薄墨を垂らしたような雲が立ち込めている。
 ―――来るな。
 朽葉色に淡く光る瞳をすっと細めた。雨の気配なら、目を瞑っていても分かる。それにしてもこの天気は。

「全く、不吉な空模様だ」

 ぼそりと呟いて笠を目深にすると、歩き始めた。あと半刻ほどで降り始めるだろう。峠を越えた先にある小さな村まではあと四里。たどり着く頃には雨足に捕らえられているだろうな、と早足で歩きながら思った。




 海を隔てた遠い異国の地では、大降りの雨を『猫と犬の喧嘩』と表すのだとか。
 この倭国で言うならばさしずめ犬猿か、はたまた猿蟹合戦もかくやと思わせるような―――否、それ以上に酷い。最早これは雨ではなく滝。大瀑布だ。
 案の定宿場の少し手前からぽつりぽつりと来て、短時間で土砂降りへと変化した。外はすっかり暗くなっている。日暮れにはまだ早かったはずだが、あまりの暗雲に太陽の光が追いつかないのだろう。轟々と振る大雨に濡れ鼠となった雷蔵は、民家の軒下を借りて雨夜を凌ぐことにした。

 普段一晩の宿を乞う際にはまず寺を選ぶ。なまじ法衣を纏っているだけに、そちらの方が何かと融通も利くし借りやすいのである。ところが生憎とこの村には寺はないようだった。聞けば社もないという。これは珍しい。どの集落にも祭祀を執り行う寺社堂宇のひとつくらい普通はあるものだ。それは人々の心の寄り処であると同時に、人々の心を一つにまとめる機能を果たす欠かせない存在だからだ。
 しかも、街道沿いの村ならば大抵ひとつふたつ民宿があってもいいはずなのに、それも無い。 

 とはいえ無いものは仕方ない。雷蔵は諦めて民家の戸を叩いた。出てきたのは人好さそうな老夫婦。雷蔵の姿を見て驚き(たしかに全身黒ずくめの上、ずぶ濡れだったら普通は驚くだろう)、あわてて中へ引き入れてくれた。旅人は旅人でも、僧侶の場合にはわりと快く宿を貸してくれる家は多い。仏の道がいかに信心を集めているかがわかる。便利な教えだ、と雷蔵は心の中で仏に合掌する。徳はないが得はある。罰当たりなことに彼は常に自分の益のためだけにそれを利用している。
 衣が水を大いに吸って重たい。絞ると大量の水が滴り落ちた。当然襦袢(はだぎ)も代えの衣までもが全滅である。心地悪さを我慢しつつ濡れ雲水のまま炉端で暖まる。不徳者でもさすがに人前で襦袢一丁で過ごすほど不作法ではない。他の荷や瓢箪型に膨らんだ大きな袋は、一所にまとめて土間に置いた。

「いやはや助かりました。突然降られてしまい困っていたもので」
「なんの。えらい災難でしたの」

 愛想よく頭を下げて礼を言う法師に、老婆は優しい笑顔でさあどうぞと暖かいだんご汁を勧める。冷たい雨に打たれていた上に空腹を覚えていた雷蔵は、ありがたくそれを頂戴した。
 出汁の効いた汁を啜る。口内に広がる味と、胎内に染み渡る暖かさでほっと息が抜けるようだった。身体の芯が温まる。
 ふと碗から視線だけを漏らすと、老爺がちらちらと雷蔵の荷に興味の目を向けていた。それが何を見ているのか、雷蔵は悟る。

「ああ、あれですか」

 老爺の興味の対象となっているものへ目をやった。老爺は慌てたように、あ、いや、と口を躊躇いがちに動かした。ぶしつけに他人の荷を見ていたことを恥じたのだろう。

「ずいぶん変わった形をしているんで……ありゃぁ何です?」
「楽器ですよ」
「ほぉ、楽器」

 感心したように老爺が漏らすのに、雷蔵はご覧になりますかと尋ねた。
 老爺は期待と好奇心に満ちた顔をこちらに向け、しきりに頷いた。これほど小さな村だ、大方日ごろの娯楽に欠けているのだろう。唯一の楽しみといえば、こうして旅人たちから新鮮な話を聞いたりすることという所は多い。
 雷蔵は胡座を解いて立ち上がった。囲炉裏から離れると、まだ乾ききっていない法衣に冷気が沁みる。
 目的の物を持って戻ってくると、水を吸って色が変わっている袋からそれを取り出した。不思議なことに、その楽器は雨に濡れながらも染み一つなく、湿り気一滴すら纏っていない。磨かれ光沢を持った白い木目が暗い室内で一瞬眩く輝いたように思え、老爺は目を細めた。楽器に通じていない老爺は不思議な姿のそれを凝視する。
 老婆も興味を引かれたように覗き込んできた。

「面白い形をしておるがや」
「いんや、儂ぁ一度だけ見たことがあるぞ。琵琶というんだったかな」

 老爺の言葉に、雷蔵は笑んだ。
 正確には琵琶ではなく、一般的な杓文字型の琵琶に比べても尻に膨らみがあるのだが、まあ間違えではない。

「一曲お聞かせしましょうか」

 雷蔵の申し出に、期待に満ちた老夫婦の眼差しが返される。一宿一飯の礼代わりにと、雷蔵は膝の上に琵琶に似た楽器を載せ、象牙作りに似た撥を当てた。この楽器専用の特殊な“撥弓(ばちゆみ)”はではない。
 静かに呼吸を繰り返し、精神を研ぎ澄ませて、ゆっくりと手を動かした。
 外は激しい雨音。そんな中、小さな木造の古家に響くのは、ゆったりとした譜。その不思議な音色は粗末な家屋の木板に染み渡り、木霊する。滝のごとき雨足がまるで遠い。そこの空間だけが、外から隔てられ静謐とした錯覚があった。
 短くも長くもない一曲を弾き終え、雷蔵は撥を弦から離した。僅かに余韻が振動となって残る。
 顔を上げれば、老夫婦は魂を奪われたかの様子で、茫としていた。やや間をおいて、ふたりはほうっと息を吐く。

「ああうっとりするね、ねぇお前さん。身に沁みるような音色じゃ。やっぱり祭囃子なんかとはわけが違うねぇ」

 老爺はううんと唸っている。

「こんな音色を聴くのは初めてじゃ」
「お粗末さまでした」

 雷蔵は頭だけで一礼すると、楽器を片づける。老夫婦の会話はまだ続いていた。

「本当、心が洗われるようだて」
「確かに、何だか身体まで軽くなった気がするのぉ」

 たかだか手遊びの一曲程度で褒めすぎではと思うところだが、ここのところ本当に具合が不調だったのだと、真剣な面持ちで二人は訴える。彼らに気づかれぬよう、雷蔵は視線を屋内に巡らした。
 ―――あれほど漂っていた黒い澱はもうすっかり消えている。柱の影や隅などに残っているのは古い家に住み着く無害な妖だけだ。
 だが先ほどまで消し炭のごとく堆く満ちていたあの黒い塊―――あれは善くないものだ。
 はじめて老夫婦の家に上がった時から“それ”の存在に雷蔵は気づいていた。竈に、囲炉裏に、梁に蠢くものたち。それらは家の隅々に浮遊していただけではなく、老夫婦の頭や肩にもねっとりと巻きついていた。体調不良もその障りであろう。
 非常に禍々しい気を放っていた。単体ではさほど力を持つものではないから大事には到らなかったが、長いこと憑いていれば次第に精気を失い衰弱していく。

 老夫婦はどこにでもいる純朴な農民である。ああいった尋常でない歪みが慕い寄って来る要因は無さそうだ。あれらは特殊な―――そう、怨みなど負の残留思念にも近いもの。
 雷蔵がわざわざ楽器を弾いてみせたのは、一宿一飯の礼とは表向き口実で、実際は溜まりに溜まった澱を掃き清めるためだった。泊まるこちらの身としても、あの状態は非常に不快である。何より彼の持つ楽器が“黙って”いないのだ。
 楽器入れの袋口を閉めた雷蔵は、未だに感心している老人たちへふと尋ねた。

「ところで、このあたりにはお寺があまりないのですね」

 どこかに最寄りがあるなら教えてもらおう程度の、軽い気持ちから出た雷蔵の問いに、それまで満ち足りた様子だった老人たちの表情がにわかに強張った。訪問者からさっと視線を反らす。瞬間、雷蔵は己が不用意にも藪の中の蛇を突付いてしまったことに気づいた。彼らの顔が目に見えて恐怖を湛えていたからだ。しまったと思うももう遅い。
 数拍か置いてのち、老父の方が躊躇がちに上目遣いであたりをうかがうようにしてから、おそるおそる口を開いた。

「実は……」

 お前さん、と隣で小さく咎める声がする。

「よしときなよ」
「けんど、このまんまじゃ儂らだってどうしようもねえだろ」
「だからって、まだこんなあどけんお坊様に」

 にわかに小声で言い争う夫婦。
 雷蔵は内心もっと引き止めてくれと思いつつも、立場上黙っているしかなかった。
 結局、老婆の躊躇いは抑止力になりきれず、老爺は意を決した顔で己の孫ほども若い僧を見やった。

「つい一年ほど前に、こン先の先の村で神の御子と名乗られるお方が現れてから、この村はおかしくなってしもうたんです。いや、この村だけじゃない。このあたりの村は、みいんなおかしくなっちまった……」

 神の御子、と雷蔵は口の中で呟いた。随分と仰々しい呼び名である。

「何でも、何も無いところから金を作り出したり、ただの水を万病に効く薬に変えたり、様々な奇跡を起こされるという話だでな。節々の痛みに悩まされていた儂等も、あン御方の“奇跡の水”を飲んだ途端、ピタリと治っちまった」

(奇跡―――?)

 いよいよ胡散臭い話になってきた。

「そだもんで、こンあたりの集落のモンは皆、御子様を崇めとるんです。そしたらあン方、お寺さんやお宮さんを追い出せ言うたんです。ご自分以外の神は邪神であると申されて。村の皆もそれに従いました。坊さんも神主さんもみいんな出て行ってしもた」

 だからこのあたりでは寺社がないのだという。
 はじめのうちは良かったんだども、と老爺の声は徐々に低く、小さくなった。

「そンうち御子様は、奇跡を起こされるのに供物を要求されるようになったんです。儂等は相談しにいくたびに供物を用意したけんど、したら今度は御子様、若ェ衆を神殿に連れて来いと言う。神さんは若ェ人間をお望みだって。そうしてひとり、またひとりと連れてかれちまった。三軒先の辰吉も、酒屋ンとこのおまさちゃんも、みんなみぃんないなくなっちまったんです。だが、誰一人神殿からは帰ってこん。そうするうちに、集落からは若ェ衆はとんと見なくなってしもうた。今は儂らのような老いた爺婆か、盛りを過ぎた大人たちだけというありさまで」
「儂等の息子も、連れて行かれちまったです……」

 老婆が涙を飲むように呟いた。

「次第に皆もおかしいおかしい思うようになったけんど、お寺さんもお宮さんもおらんし、誰にも頼ることができん。御子様に逆らえなくなったんです」

 そう言うと、老爺はガバッと床に手をついて法師を仰ぎ見た。

「どうか、どうか儂等を助けて下さらんか。この通り、お頼み申します」

 必死になって額を床に擦り付ける。おろおろしていた老婆も、それに習った。

「どうか、お願い申し上げます。こンままでは村は滅んじまう……」

 悲痛な声で二人は旅の法師に訴える。
 この時雷蔵は、軽い情報収集程度のつもりで迂闊に質問などしたことを後悔していた。

(やっぱりこう来たか。訊くんじゃなかったな)

 うっかり厄介ごとに巻き込まれてしまった。今更ながらやはりあの道祖神はこのことを示唆していたように思えてならない。
 必死に土下座する老夫婦の白髪を眺めやり、溜息をつく。

「お話は分かりました。いいでしょう」

 パッと二人が顔を上げる。今日初めて会ったばかりの少年のような坊主を縋るようにみた。
 「ただし」雷蔵は期待に満ちた二対の瞳へ釘を刺すようにすかさず言い添えた。

「こちらも危険を承知で行くわけです。報酬は弾んでもらいます」

 坊主のくせに怪しからんことを要求する。
 しかしおっかない御子様とやらのせいで麻痺しているのか、老夫婦がそこを不思議に思う素振りはない。ただ不安げに顔を見合わせた。

「あの、ちなみにいくらほど……」
「そうですね。ひとまず金五十両」
「へえ!?」

 二人は同時に叫ぶ。銀の一両ですら、一介の農民風情には一生手にできるものではない。それが金、しかも五十両など、そんな大金が用意できるわけがない。

「そ……そんな……」
―――を、その御子様とやらから頂戴します」

 無理だと言いかけた老爺の言葉を遮り、雷蔵はそう続けた。
 老人たちは目をぱちくりとさせた。

「……は?」

 あまりの驚きに言われたことを頭が理解できないのか、瞠目して目を瞬いている。
 そんな二人へ、雷蔵は莞爾と笑みかけた。

「何も別にあなた方から取ろうなどとは思っていませんよ」

 そもそも無理だろうし、と心の中で付け加える。
 雷蔵は表情を改める。

「その神子殿があなた方に要求した供物は、食物や人間ばかりではないのでしょう?」

 夫婦は顔を伏せた。それは肯定を示している。
 そう、つまりその神の名を騙る怪し者は村人が貯蓄していたなけなしの財までも巻き上げていたのだ。

「ならばその者自身、相当に金を持っているか、それに相応する財を所有していると見ていい。まあ金五十両あるかどうかは分かりませんがね。そこはそれ、とりあえず報酬はそこからいただくことを条件に引き受ける―――それでよろしいですね」

 しばらく間をおいてから、まるで頓知か狐狸に化かされたみたいにパチクリしながら、ありがとうございます、とお人好し老夫婦は再び頭を床につけた。
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