四畳半程度の、小さな塗籠の中で二人は向かい合って座っていた。惣之助は変装を解いているが、雷蔵はそのままでいる。
 四隅には榊を置き、四辺は縄に囲われている。これは結界だと雷蔵は説明した。

「音が外に漏れると少々厄介なのでね」

 ちなみにこの部屋も計画に必要だからと言って、春季に要求したものの一つで、誰も近づけさせるなとも言ってある。
 龍弦琵琶を抱いて言う雷蔵に、惣之助は強張った面持ちで頷いた。その堅く静坐の姿勢を保つ様子に微かに笑う。

「大丈夫、そんなに緊張することはない。肩に力を抜いて気を楽に。今はまず、以前のような自然な感覚を取り戻すことから始めよう」

 この言葉に惣之助は少なからずホッとしたようだった。

「さっきも少しだけ話したけど、梅香さんは消えたわけじゃない。今も君の側にいる」

 雷蔵の言葉を聞きながら惣之助が真剣な面持ちでうなずく。

「ただ元々寄り床であった梅の木が汚され、伐られてしまったために、生来の力が得られない。だから君にも姿が見えないんだ」
「そうか……」

 浮かぶ惣之助の表情はひどく苦しげだ。けれど知らなければならない。彼が己で答えを決めた時点で、雷蔵は現在の状況のすべてを伝えるつもりだった。

「梅香は……その、このままでは消えてしまうのかい」

 それを聞くだけでも、どれほどの勇気が要ったのだろう。
 けれど雷蔵は首を横に振った。

「消えはしないよ。このままなら。ただ彼女は非常に複雑な状態にある」

 どういうことかと問いた気に、惣之助の眼差しが揺れる。

「梅香さんは今、全霊であるものを封じている」
「あるもの?」

 雷蔵は真正面から惣之助を射た。

「円路という男の霊魂だよ」

 その瞬間、惣之助の全身から血の気が引いた。今の彼には、『円路』という名は忌詞に近い。
 顔が紙のように白く浮いている。衝撃のあまりか、言葉を失ったまま茫然としていた。
 波打った惣之助の気が落ち着くまで雷蔵は根気強く待った。

「梅香が、何で」

 ようやくのことで、からからの喉から絞り出された、乾いた声音。動揺と困惑と悲嘆と苦痛と、あらゆる感情が混ざり合って複雑な響きを奏でるそれは、持ち主の心情をよく表していた。
 雷蔵はやや目を落とし、淡々と答える。

「俺は〈遠見(とおみ)〉ではないし、その当時の状況をこの目で見たわけではないから推測しか言えないけど―――恐らく円路が梅香さんの木で首を吊った時、その謡いに対する固執が強い念として残ったのだと思う。けれどそのあまりに根深く強すぎた妄執は、死して怨霊となり、君に取り憑こうとしていた。だから彼女は君を守るために、侵食してくる負の念を、逆に全霊を以てその身の裡に封じ込めた。本当はそのまま共に消えるつもりだったのかもしれない。ところが円路の念は思いのほか強く消えなかった。そして梅香さんは今も彼を抑え込みながらも、同時に円路の念の強さによって存在を保っている」

 ほとんど一蓮托生というほどまでに融合し、同化してしまった二つの魂。梅香の力ではそこまでで精一杯なのだろう。そのまま消滅することも解放することもできぬまま、二進も三進も行かぬ状態を続けながら、今もなおこの世にあり続けている。
 惣之助は震える唇を覆った。吐き気を堪えるように床に手をつき項垂れる。

「そんな……俺のために?」

 引き攣る声で名を呼び、嗚咽する。

「俺のせいで、俺が自分で呼びこんだ過ちのために、あの娘が犠牲になることなんてないのに……!」
「それでも彼女は君を助けたかったんだ。たとえ代わりに苦痛を引き受けることになっても」

 雷蔵は慟哭し打ち震える肩を見据え、静かに告げた。

「取り違えてはいけないよ。彼女は身代わりになったことを後悔していない。君に哀しんでもらいたいとは思っていない。むしろ」

 一度切って、ゆっくり言葉を探した。

「幸せになって欲しい、昔のようにまた謡って欲しいと、そう言っている」

 だから梅香は雷蔵に頼んできたのだ。自分ではできぬ浄化を、すべてからの解放を。もう終わらせるために。

「もしも君が梅香さんのことを思うなら、どうすればいいか分かるね」
「……」

 惣之助はおもむろに首を上げた。そうだな、と弱々しくも少し落ち着いた声音で答え、首を振った。

「俺がしっかりしなきゃいけないんだな。もうあの娘に心配かけないように。謡いを……今度こそ、真剣に向きあわないと」

 己の腕を片手で強く掴みながら、自らに言い聞かせる。
 頃合いを計ってから、雷蔵はもう一つ、別件について口を開いた。

「それから、もう一つ重要なことがある」

 惣之助が真摯な眼差しで見つめ返してくる。

「君が追われている相手についてだ。惣之助殿は、それがこの領地の城主御前であることを知っていたね?」

 確信を籠めた雷蔵の問いに、やや逡巡を挟んでから肯きが返って来た。

「城主が俺を探しているのは、色んな噂を耳にして知ったよ。何でかは分からないけど」
「御前と面識は?」
「一度だけだけど、多分会ったことがある。この地で請われて能楽を披露した時に、謡い手としてついて来たことがあって、きっとあの時の座にいたんだと思う。俺は直接顔を合わせたわけではないけれど、向こうは俺のことを知っているだろう」

 雷蔵は少し考え込む風にうつむいた。予め立てていた憶測が大方正しいことを確信する。

「噂では城主御前はある時から人が変わったように性格が変じたという。俺の勘だと、彼女は恐らく魔に憑かれている」
「魔?」
「心の闇……というべきかな。己の呼びこんだ魔に支配されてしまっている。そこに君の謡いを耳にした」

 無意識に感じ取ったに違いない。彼になら自分の空しさを慰められると。

「君をあれだけ執拗に追わせていたのは、彼女の内に巣食うものが求めたためだろう。神歌唄いは、実際神だけでなく魔をも魅せるものだから」

 この言い方では少々語弊があるな、と雷蔵は心中でひっそり否定する。神と魔を分けるのは難しい。両者は時に同じものとなり、時に相反するものとなる。

「そこで、君にはいっそひと仕事働いてもらおうかと思う」
「というのは」
「御前様の前で唄うんだ」

 明らかに動揺する気配が伝わって来た。戸惑うのも当然だろう。だが。

「これから教える鎮魂と浄化の歌は、そう連続で何度も唄えるものじゃない。ならいっそすべてをまるごと一場に解決してしまえばいい。君も今後ずっとこんな風に追われるのは困るだろ」
「それはそうが……そんなことができるのかい?」

 雷蔵は安心させるように微笑んだ。

「そのために俺がいる。俺が君の補佐をしよう。成功すればすべては自ずとあるべき形に還る」
「……」

 惣之助はまだどこか半信半疑で、不安そうだった。少し迷う素振りを見せてから、意を決した様子で雷蔵を覗う。

「一つ質問をしていいかい?」
「どうぞ」
「君は俺を神歌唄いだと言ったね」
「そうだね」

 頷きを得て、惣之助は身を乗り出した。

「雷蔵殿は違うのかい?」

 言ってから慌てて付け加える。

「別に他意があるわけじゃないんだ。同類って言ってたから、何となく気になって」

 「分かっているよ」と雷蔵は笑んで首肯した。

「俺は強いて言うなら呪歌唄いだ。神歌唄いとは違って歌声そのものに力は宿らない。特別な楽器を媒介にすることで働きかけることはできるけど、それでも君とは似て非なるものだよ」

 神歌唄いは神に愛された謡い手。天然天生の神楽者であり、だからこそ非常に稀少な存在だった。
 雷蔵はどこか見つめるようにして、ふと記憶の底に眠る村に思いを馳せる。普段思い出すことはほとんどない。忍びの隠れ里よりもずっと昔、血の繋がりと共に暮らしていたかつての龍の民の里を。

「そうだね。はじめる前に、気分転換がてら少し昔語りでもしようか」

 そう呟いて、雷蔵は弦を緩やかに鳴らした。




 遠い昔、北のある秘境の地に、ひっそり息づいて暮らす人々がいた。彼らは自らを〈龍の民〉と呼んでいた。
 一体何時の頃からそこに住みついたのかは分からない。ただ彼らがはっきりと感じていたのは、自分たちがこの大和で多勢を占める民とは源を異にするということだった。古老の伝える話によれば、元は広く住み暮らしていたのだが、やがて渡来の民に追われ、奥地に住処を遷したという。国津神を信仰する人々よりもずっと前からいたというのだから、所謂先住の民というものだったのだろう。その国津神が更に外来の天津神に駆逐される中、彼らは己の神を奪われまいと逃げ隠れ、細々と血を伝えてきた。

 「龍の民」の呼称は、龍と契約した人間を祖とすることに由来する。村では代々そう語り継がれてきた。かつて民の祖は大陸より闘いに破れて逃げてきた龍神を匿い、その傷を癒した。恩返しに龍神は彼の子子孫孫を永久に加護することを約したのだと。
 龍の護りと祝福を受け、龍を崇める民。それがただの言い伝えとは誰も思っていなかった。なぜならその証とでもいうように、〈龍の民〉にはそれぞれ特殊な能力があったからだ。ものを見通す〈遠見〉、未来を予知する〈先見〉、神霊を下ろす〈依代(よりしろ)〉、傷や病を癒す〈越智(おち)―――ほとんどの家の者が何かしらの巫覡の質を持っていた。それが当たり前であったから、むしろ何も持たずに生まれる方が珍しいくらいだった。
 そして雷蔵が生まれたのは、そんな村の中の家の一つであった。

「母は〈聞き耳〉だったけど、俺はどうやら父方の血を継いだらしくてね。父は審神者だった」
「さにわ?」
「神が降りた際、いずれの神かを見定め交渉を執り行う者のことだ。代々龍弦琵琶の奏者はこの役を担っていた」
「その琵琶?」
「ああ」

 雷蔵はそっと木面を撫ぜる。

「本体は神木、弦は龍の髭、撥と弓は牙骨、弓毛は鬣でできているという」

 惣之助がぎょっとしたように訊き返す。

「本物かい?」
「さぁどうだろう。言い伝えだからね」

 ただ雷蔵が知る限り、龍弦琵琶の弦や弓毛は原料不明で、切れたことが一度もないどころか劣化する兆しさえない。木面にしてもそうだ。普通の琵琶は冬場の乾燥や夏場の湿気で傷んだり割れたりするものなのに、まるで平然としている。それだけで十分尋常ではなかった。
 そういった不思議な楽器は龍弦琵琶の他にもあって、縦からも横にしても吹くことのでき音色も異なる龍笛や、撥や手を使って敲く龍鼓などがあり、それぞれ代々奏者を担う家があった。神降ろしの儀では依代が神懸かりしやすいよう特殊な曲を奏するのだが、合奏者のなかで審神者を兼ねるのは〈龍弦弾き〉のみと決まっていた。実際は〈楽師〉であれば審神者の資格は有しているのだが、〈龍笛吹き〉は口が使えぬし、〈龍鼓敲き〉もまた問いかけを行うには不便が多い。その点〈龍弦弾き〉は呪歌を唄う余裕もあるので、専ら彼らが担当した。

 そうといって、では〈龍弦弾き〉に生まれついた者が羨まれたかといえば、実はそうでもない。審神者は神と対面し、窓口の役目を担うから、相応の危険を伴っていた。もしも神が何かの折に機嫌を損ねたり、あるいは荒ぶる魂を鎮めきれなかった場合に、一番に責を負い傷つくのは審神者だった。一応そこは、結界を専門とする〈境者〉や神霊への対抗手段を持つ〈鬼手〉がいたし、命を失うほどの危機には滅多に遭遇しなかったが、怪我を負うことはあったという。
 それでも神が応じるのは〈楽師〉の問いかけだけ。村で審神者のみを担う家がなかったのはそのためだ。

「じゃあ君の村には、神歌唄いもいるのかい?」
「呪歌唄いは大体各世代に数人いたけれど、神歌唄いは滅多には生まれなかった。本当に稀少な存在だから、一生に一度会えればいい方だったらしい」

 そんなに、と惣之助は唾を呑む。今更ながらに、己の存在が重く圧し掛かる。
 そこでふと、妙に引っかかった部分を繰り返した。

「何故過去形なんだい?」

 惣之助の疑問に、雷蔵は気付いた風に「ああ」と応じる。

「もうないからね」
「え?」
「村は今はもうない」

 この言葉に、惣之助は口を噤んだ。もうない。その意味するところは。
 雷蔵が伏せがちにしていた瞳を僅かに開く。

「滅んだんだよ。ずっと昔に」

 嫋と一つ二つ掻き鳴らす。穏やかに、柔らかに。
 〈龍の民〉の暮らす小さな里は、二十余年前に、外地からたまたま迷い込んだ餓えた落ち武者達によって皆殺し焼き討ちに遭った。雷蔵が四つの時のことであった。長い時を閉鎖された空間で過ごし、血を厭い、和を愛した里人たちは、神や魔に対抗する技は知っていても、同じ人間と争い身を守る術を持っていなかった。結局逃げ場のない中で、憐れな民たちは瞬く間に惨殺された。

「俺だけは、当時外地にいて危機を察して駆け付けた叔父に救われて、何とか逃げ延びたんだ。だから俺自身には実のところ村の記憶がない。物心つくか否かの時だったからね。俺の〈龍の民〉としての知識は、すべて〈語り部〉であった叔父から教わったものだ。けどその叔父も俺が十三の時に病死した。だから今〈龍の民〉は俺一人を除いて、もう残っていない」

 穏やかな声音からは哀しみも空しさも憤りも、欠片すら聞きとれない。表情さえもただ淡々としている。
 最後の生き残り。惣之助は滅多に耳にすることはないその境遇に、途轍もない孤独を思った。
 しかし惣之助は気付かない。そこに潜む矛盾に。
 龍神に加護を約束された民。その証のように神通力を宿した人々。―――何故彼らは外からの殺戮者の凶手から護られなかったのか。彼らが殺されゆく時、神は何をしていたのか。

「さて昔話はこれくらいにして、そろそろ始めようか」

 透明な、何も映さぬ瞳をどこともない所に向けていた雷蔵は、不意に顔を上げてにこりと笑った。撥を握り直す。
 気持ちが切り替えきれずに戸惑いながらも、惣之助は問う。

「俺はどうすればいいんだい?」
「最初はただ聞いているだけでいい。まずは旋律と詞を覚えることに専念して、それから少しずつ感覚を取り戻していくんだ。焦ることはないよ」

 惣之助は表情を引き締めて、肯いた。
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