突然飛来してきた白い撥が命中し、呑む直前であった春季はうわっ、と声を上げて思わず取り落とした。
 佐藤は制止を聞いた瞬間いち早く手を止めていた。

「な、何だい空蝉、急に……」

 濡れた己の衣と零れた酒精を見比べて眉を落とし、春季は顔を上げる。残り二人の見張り役の男たちは言わずもがな、惣之助も驚いた顔で見ている。
 雷蔵は心持ち厳しい表情をして告げた。

「毒が入っています」
「え?」

 聞き間違いか何かかと、春季がぱちくりと瞬きをする。

「何―――

 問う間もなく、傍らの佐藤が突然春季の前から手を伸ばし酒瓶を奪う。そのまま制止も聞かず早足に庭に下りると、設えられた小さな池に近づいた。春季たちはびっくりしながらも訝しげな心地で縁側からそれを見守る。
 佐藤は躊躇わず素早く瓶の中身を傾けた。煌めく帯を描き酒が池中へ消える。
 やがて水面に何かが次々と浮んでくるものがある。月明かりに反射するそれは、鯉のひれであった。

「!!」

 目にした瞬間、春季は衝撃に声を失する。
 その時である。突然背後で上がった悲鳴。ガタンと膳が転げ、人が倒れる音が続く。はっとして振り返れば、見張り役の小者の一人が胸と喉を掻き毟りながら痙攣していた。双眸を大きく見開き、喘ぐように開けた口からは唾液が泡のように零れている。

「い、一介」

 傍らのもう一人が青い顔で見つめている。この男はたまたま飲む直前に酒の透明度を測っていたので、ぎりぎりで口にするのを免れていた。
 しかし同僚の状態にすっかり怯え、ガタガタと震えている。
 その前を飛び越えたのは女物の衣だった。

「離れて」

 雷蔵は男を押しのけ、一介という男を背中から抱えるように腕をまわすと、そのままグイッと力を込める。途端に一介が呻き、次の瞬間には嘔吐した。梅の香りに饐えた臭いが混じる。

「急いで大量の湯を用意しろ。それから医者を呼べ。今すぐにだ!」

 庭から縁側に戻った佐藤が腰を抜かしている男に怒鳴りつける。それでようやく我に返ったか、見張り役は慌てて駆け出し室を飛び出す。
 胃の中の物をあらかた吐き出した男は顔面蒼白でほとんど意識混濁している。
 ひとまず一介を横たえた雷蔵は、すばやく室内を見回した。そして酒の残った杯を見つけると、さっと近寄って手に取り匂いを嗅いだ。何をと春季が問うよりも先に迷わず口に含む。
 その喉が動くのを、春季は確かに見た。すうっと血の気が引く。

「空蝉!」

 咄嗟に駆け寄り、その肩を掴む。

「何をしているんだ!! 自ら毒を―――!」
「……ちょっと静かにしてもらえませんか」

 動揺に声を荒げる春季に対し、しかし平然とした様子の雷蔵は若干眉間を皺寄せた。春季は目を見張る。その声音も表情もいたって落ち着いているばかりでなく、毒の作用など微塵も出ていない。
 雷蔵の目は春季を見ぬまま、しばらく何かを考えているようだった。

「退いて」

 不意にそう言ったかと思えば、肩にかかっている手を外し、春季を押しのけて部屋の隅に向かう。そこ置かれているのは、雷蔵の荷袋だ。
 雷蔵は口を開いて中を漁り、探し当てた籠を取り出す。蓋を開ければ中には小瓶や包み紙が収まっている。そのうちから三つの包みを選び出すと、再び一介の側に戻る。
 一介は誤って窒息せぬよう頭を仰け反らせられていたが、雷蔵はその口中に指を入れ吐瀉物が残っていないことを確認してから、手早く包みを開く。中には丸薬のような黒い粒が入っていた。開いた喉の奥へ放り込む。条件反射の嚥下運動で一介はそれらを呑み込んだ。

「それは?」

 恐る恐るといった調子で様子を覗っていた春季が訊く。「解毒薬です」雷蔵は目を離さずに答えた。

「解毒だって?」

 春季の疑問など尻目に、雷蔵の視線は一介に向けられたままである。様子を観察しているようだった。
 やがてどれほどしたころか、死んだようにピクリとも動かなかった一介が突然咳き込んだ。それから先程のような虫の息とは違う、普通の呼吸を取り戻す。顔色にも血の気が戻ってきていた。
 それを確認して、雷蔵はふうと息をつく。

「ひとまずこれで大丈夫でしょう」
「大丈夫って……毒だろう?」
女郎紅(じょろうこう)
「は?」

 呟かれた一言に、すっかり気が動転している春季は間の抜けた声を上げる。

「毒の名です。真っ赤な紅色をした花をつける毒草で、乾燥させれば無味無臭の猛毒になる。少量でも体内に入れば機能を停止させる即効性のもの」

 専ら暗殺に用いられるもので、毒薬としては一般的ではないが、珍しくはない。
 持ち合わせでどうにかなる類の毒であって良かったと雷蔵は胸中で吐息をつく。一介に呑ませたのは、毒によって緊張し停止した体内機能を、弛緩および活性化させる薬だった。

「医者にはそれだけ伝えれば何とかなるでしょう。あとの処置はお任せします」
「え、ええ?」

 解毒に使った薬についてはすっぱり省く。そもそも薬草や調合法は雷蔵が独自に発見したもので説明のしようがない。一方的に切り上げ、雷蔵は立ちあがって裾を整え、先ほど投じたまま床に落ちている撥を拾い上げた。あまりの急さについて来れていない春季などお構いなしだ。

「今夜ここでは寝れませんので隣を借りします」

 許可も聞かずに断ると、同様に呆気に取られている惣之助を促し、荷を持ってさっさと部屋を出ようとする。

「い、一体これは」
「後で説明するから、今は何も言わずに」

 小声で囁かれ、惣之助は一部始終に目を白黒させながらもひとまず頷く。
 ようやく立ち返った春季は、慌ててその背に向かって声を上げた。

「空蝉、君は?」

 先程確かに毒を口にしたはずだ。いや、今空蝉は即効性と言ってはいなかったか。では何故効果が現われない?
 背後では佐藤が何故か据わった目で春季を見ている。
 ピタリと雷蔵の足が止まった。肩越しに顧み、さらりと微笑する。

「私は毒が効かない体質なので」
「……え?」

 それだけを言い、首を戻すと惣之助と連れ立って襖の向こうへ消えた。
 後には呆けたままの春季と、一介、そして沈黙を守る佐藤のみが残された。
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