24.迷い迷いて分かれ道



 自分は何をしていたのだろう。
 突然の早人の変貌。―――いや、もしかしたら変貌などではなかったのかもしれない。昔から、ああいう人物だったのだ。見破れなかったのは己の目が曇っていたから。
 先ほど早人の言った言葉が未だに受け入れられず、行尊は混乱していた。今まで自分がしてきたこととは一体、何だったのだ。ありえない現象の連続に、驚く気持ちも麻痺していた。ただ早人の語った言葉だけが、耳の奥に何度も木霊する。
 多くの信者を騙して。
 無辜の民を殺して。
 目的は、平和な国ではなく、ただ天に君臨せんという己の野望だけだったのか。

「御真主様!」

 猛然たる風の中、背を向ける白い衣に追いすがる。
 まろぶようにして、両手で必死に裾を引き止めた。

「お答え下さい、御真主様。何かの間違いでしょう? まさか貴方様が、何の罪も無い人の命を、私欲のためだけに奪ったなど」
「……煩い男だ」

 何の感情も篭らぬ冷たい声音。蔑むように見下ろす澱んだ(まなこ)
 あからさまなそれを受けながらも、しかし行尊は諦めきれなかった。それは早人を信じているというよりも、自分のしてきたことが誤りでないということを、懸命に証明したかっただけなのかもしれない。

「貴方様は、あくまで四ツ輪衆の治むる平和な世をお作りになる、そう仰られたはず」
「今更、何の戯言を抜かすか」

 早人は、侮蔑と嘲りを含んだ一瞥を、行尊に向けただけだった。
 さあと音を立てて血の気が引く。血と共に身体の熱全てが消えていくようだった。

「離せ」
「お待ち下さい!」

 ザッと、赤い飛沫が飛んだ。
 悲鳴を上げて、行尊は両腕を抱え込んだ。傷がどくどくと脈打ち、血が溢れる。

「この期に及んで、ひとり知らなかったでは済まされぬぞ。主も同罪よ。儂の手足となって命令を遂行していたのだからな」

 早人は冷淡に睥睨し、去っていく。
 呻きながら、痛みによる涙に霞む眼で、行尊は必死で顔を上げた。
 一体、私は何をしてきたのだ?
 私がしてきたことは、何だった?
 薄暗がりに溶けかけた早人の姿が、ある所で止まる。
 目を凝らせば、早人の視線の先に、一人の少女が座り込んでいた。早人の眼がギラリと光るのが、なんとなく分かった。宿るのは殺意。
 あの娘は忍びの技を知っている。だが、轟く風のせいか、それとも別のことに気を取られているのか、すぐ側で刀を下げる早人に気づいていない。ここから叫んでも、風の音に掻き消され、声は届かないだろう。
 叫ぶ?―――そこで行尊は自身の思考に驚いた。あの娘に危機を教えてどうする。むしろ命を奪おうとしていたのは己ではないか。
 早人の手が動くのが見え、行尊は、痛みを堪えてフラフラと立ち上がった。
 何故そうしようと思ったのか、自分でも分からない。
 しかし、気づいた時には、彼は走っていた。痛みはもう感じなかった。
 振り下ろされる光を潜り、自分の身を滑り込ませる。
 罪滅ぼしのつもりなのか、今更。
 自問が頭を掠める。
 覆い隠した下で、なびきが驚くのが伝わってきた。
 背中を斜めに横断する熱。肉を断つ鋼の冷たさが生々しい。
 行尊は、ふいに自分の俗名を思い出した。
 それで呼ばれていた、懐かしい日を。




 彼の村は、ひどく貧しかった。食い扶持を浮かせるために、子消しというものが秘密裏に慣習として行われていた。こけし人形がどの家にも立ち並ぶ、そんな村だった。
 一度子消しにあった子供は、たとえ運良く生き延びられても、二度と村には帰れない。家族には戻れない。もはや死んだも同然の存在だから。獣のように生きていくしか、道は残されていない。
 そんな自分を、飢え死に寸前で拾ったのは、山一つ隔てた町の寺の和尚だった。
 なんと憐み深いと人は言うだろう。しかし現実は真逆だ。拾ったのだって純粋な慈悲の心からなどではありえなかった。それほど酷い坊主と、酷い寺だった。
 稚児扱いする和尚に、贔屓を妬む小僧たちの陰湿ないじめ。同じように拾われ、人間以下の扱いを受ける子供達。仮にも命を救ってもらった恩と、少なくとも命の安全と食べ物と寝る場所があったから、成人まで我慢して、飛び出した。
 しばらく行脚して、若狭の国で四ツ輪衆に―――早人に出会った。
 教えなどどうでもよかった。ただ、早人は誰もが安心して暮らせる世を作りたいと、そう語ったから、行尊は力を貸そうと思った。
 もう自分のように、飢える子供も、親に捨てられる子供も、虐げられる子供もいない、衣食に満ち足りた世を。行尊が求めていたのはそれだったから、どれだけ自分の手を汚そうと、構わなかった。その理想を邪魔する者は、徹底して排除する気だった。
 なのに、結局自分がやってきたことは、全くの無意味だった。
 神などいない。仏など、どこにもいない。
 行尊は皮肉気に嗤った。
 覚えているのは、こめかみを貫く痛みが湧き起こり、眼裏で閃光が放たれたところまでだった。




 なびきを探していた雷蔵と美吉は、倒れ伏す二つの影を見つけて駆け寄った。
 なびきがぼんやりと、顔を巡らしてくる。二つの顔を硝子玉のような瞳に映し返す。泣くかと思ったが、涙は流れなかった。

「これは……」

 呟いたきり、声を失う美吉。
 何せなびきは、血まみれの僧侶を―――行尊を抱えていたのだから。

「分からない……何なのこれ。もう嫌だよ、何もかも……」

 会話もままならず力なく頭を揺らす少女に、雷蔵と美吉は顔を見合わせる。いくら忍びの子とはいっても、いくら気丈だとはいえども、なびきは実戦経験もない、年端も行かぬ少女なのだ。
 その精神が負った深い傷は、きっと簡単には治らない。時間をかけて癒しても、醜い痕が残るだろう。
 しかし、残念ながら彼らにはそれに構ってやれる時間も余裕も無かった。
 逃してはならない者が、一人がいる。

「あの男だね」

 目線を合わせるように、雷蔵は膝をついて穏やかに問い掛けた。ゆっくりとなびきが頷く。

「どこへ向かった?」
「……あっち」

 拙く指差した方角を見れば、元は木張りの床だったところに、瓦礫が散乱している。その影に隠れるようにして、明らかに人工のものと思われる正方形の穴が開いている。

「坑道への隠し口か」
「追うしかないね」
「大丈夫なのか?」

 チラとなびきを見やり、美吉が問う。雷蔵は一瞥もせず是と答えた。

「影梟衆はもう俺たちを襲うことはない」
「そうか」

 『そちら』のことを懸念したのではなかったのだが、美吉はあえて指摘は避け、痛ましげな視線を少女に落とす。しかし、すぐに雷蔵のあとに続いて裾を翻した。




 早人は、ともすればよろける足を叱咤し、坑道を走っていた。携帯の火薬と火打ち石で点した灯りを頼りに、奥の方へと急ぐ。
 何とか奴等から逃げなければ。少しでも遠く。この坑道は大迷路となっている。早人は地上へ続く道を知っているが、知らぬ者が下手に踏み込めば抜け出られなくなる。それが頼みの綱だった。
 奥歯を噛み締める。野望が、あと一歩というところで崩れたことに、臍を噛む気分だった。
 結局、自分の手に残ったのはこの妖刀一振り。〈神血〉はあの場でしか採れないし、〈秘伝〉は奪い返されてしまった。もう望むことは出来ない。
 己の術師としての能力を生かして、折角不思議なる酒の泉を見つけ出し、なおかつ〈秘伝〉までも手に入ったのに、幸運は長続きしないものか。
 否、と早人は漏らす。まだ、この刀がある。これを元に、いずれかの有権者にまた取り入れば―――
 まだ天は儂を見放しておらぬ。そう唇を吊り上げた所で、足元に違和感を感じた。
 まるで泥上を走っているような―――
 はたと灯りを下に落とせば

「ヒッ!」

 喉が引きつった。
 足首から先が、真っ黒なものに包まれている。前後へ火を揺らせば、来た道も、行く道も、すべてが闇に沈んでいる。普段では決してありえない情景。不気味な恐ろしさが早人の心臓に早鐘を打たせた。
 形振り構わず、無理やり進む。だが次第に重くなり、動きが鈍くなる。とうとう進まなくなった足に、やがて何かがしがみつく感触を覚えた。恐る恐る見下ろし、声にならぬ悲鳴を上げた。
 足に、無数の手が絡みついている。男とも女とも、子供とも大人ともつかぬ、血の気の無い青白い手が、闇の中から生えて、手招くように揺れながら、早人に向かってくる。

「や……やめろ! 消えろ!!」

 口角から泡を飛ばし、滅茶苦茶に刀を振り回す。しかし、手は散るどころかどんどん増えるようだった。
 脹脛に、膝に、腿に。少しずつ登ってくる。ずぶずぶと、身体が闇底へ沈んでいく。
 すべての手が、早人を引きずり込もうとしていた。耳障りな雄叫びを上げて、狂ったように暴れる。
 何度目かの太刀で、刃の先に何かが引っかかった。力任せに引き上げれば、ズルリ、と生々しい音を立ててそれが現れる。
 丸顔の女。虚ろな眼窩を向けて、傷だらけの腕を早人の刀に絡み付けている。
 この女を早人は知っている。刀の犠牲にした、七人のうちの一人。
 慄く早人の右腕に、今度は男の形をしたものが絡みついてくる。
 左腕に、背中に、腹に―――ポコ、ポコと闇から現れたのは、すべて自分の手にかけた者。誰もが傷だらけで、青黒い顔をして、恨みがましい目玉を早人に当てている。

「くそ、この死人共が!! 今更こんな恨みがましいことを!」

 狂ったようにしきりに奇声を上げて力任せにもがく。

「離せぇ! 離せぇええ!! 儂はこんなところで終わらぬ! 貴様らは死んだのだ、しんだはず……」

 言葉尻が震える。早人は完全に恐怖に萎縮していた。
 闇に引きずり込まれる。腰が、胸が、肩が、顎が。
 こめかみのあたりでプツンと、何かが音がした。
 は、ははと口から笑い声が零れ落ちる。やがてそれは悲鳴のような哄笑に変わってゆき、ついに闇へと沈んだ。
 断末魔はなかった。




 呆けながら失禁し、涙に(はなみず)に涎を垂らし続けている。
 神経の糸が切れた男を見届けて、闇の中から雷蔵と美吉は姿を現した。

「えげつねぇことするなあ」
「そうかね」

 手刀印を解き、雷蔵は首をわずかに傾ける。

「殺さねぇのか?」
「別に? 一日すれば正気に戻るようにしてある。気がついた時には牢の中、しかも拷問に打ち首というおまけつきだ」

 裁きは裁く所に任せるつもりらしい。雷蔵の決着のつけ方に、眠たげだった美吉の目に意外なものを見るような色が宿った。
 落ちた刀を拾う相棒を、美吉はまじまじと凝視する。

「何?」
「いんや。前のお前だったら、容赦なくバッサリだっただろうと思っただけだ」
「誰かさんに感化されたのかもね」

 背を向けたままくすりと笑えば、美吉は微妙な面持ちで頭を掻く。
 しかし、雷蔵が持ち直した妖刀を見るなり、慌てて身を引く。

「待った、そいつは近づけないでくれ。〈秘伝〉持ってても今の俺には無理そう」

 口調はおどけているが、辛そうに左目を押さえているところを見れば、本当にきついのだろう。雷蔵も苦笑して、手を持ち替えた。なるべく美吉から幅を取るようにして、来た道を戻りはじめる。灯りはなくとも道は分かる。

「それどーすんの?」
「このままにしても災いの種だからね。浄化してから、どこへなりと捨てていくよ」

 そう告げた雷蔵に、美吉は後方から一言、

「お前、本当に変わったよな」
「それを言われたのは君で三人目だよ」

 少々釈然としない様子で、雷蔵は言った。
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