22.朧に惑いて光断つ



「お前の同朋、面白い技を使うな」

 闘いながらそれとなく美吉たちの方を窺っていた虎一太が、茫洋と言う。
 まぁね、と雷蔵は短く相槌を打った。わざわざ種明かししてやる気はない。言わぬところで虎一太なら気づいたかもしれないが。

「二度も手心加えられるとは―――感謝していいのやら、情けないやら」
「美吉は殺しはやらない。君らと一緒だから別に恩義に感じることはないと思うよ」

 虎一太は苦笑した。そうではなく、他派の―――しかも無名の相手に簡単にしてやられてしまう部下の不甲斐なさを嘆いているのだが。

「彼一人に入ってもらった方が、よっぽどいいかもしれないな」
「そんなこと言って、不甲斐ないところも可愛いんだろ?」

 虎一太は再び苦笑を禁じえない。よく見ている。
 不知火は、力量を絶対値で考えるなら、決して弱い方では無い。むしろ並みの忍びでは何人かかっても倒せない。でなければ影梟衆で一隊の指揮を任されるはずがなかった。強さだけ取れば、雷蔵の身近でならば、准上忍であった佐介よりも腕が立つだろう。
 すなわち雷蔵と美吉の強さの方が桁外れということなのだ。

「さて、ここで師匠が負けちゃあ、弟子の不始末も責められないな」
「もちろん勝ちに行かせてもらう」

 ゆらり、と虎一太の影が揺れた。独特の歩法で間合いを取る。
 来るな。雷蔵はそう確信した。先ほどから何度か打ち合っているが、虎一太は本気を出していない。もちろんそれは雷蔵も同じなのだが。ほとんど戯れのように得物を交わしているだけだ。
 虎一太が恐ろしいのはここからだ。

「いつまで錫杖で相手をする気だ?」

 ぼんやりと笑いながら訊いてくる。

「これが今の得物なんでね」
「薬も、毒の系統は使ってきていないな」
「生憎切らしてて」
―――殺す気なしに、俺に勝てると思うか?」
「さぁ。試してみないことには」

 手加減はしない―――虎一太が低く言い置いた。
 暈乎(ぼや)……と、対峙する長身の輪郭が霞む。
 雷蔵は思わず双眸を瞬いた。次の瞬間、すぐに反応して半身を退く。だが一撃避けただけでは、相手は待ってくれなかった。視界に入った身体の線が、幾重にも重なって暈ける。足払い、逆薙ぎ、突き、肘鉄、までは避けたが、その後は上手くいかなかった。
 服を裂いて、熱い衝撃が脇に走る。
 ポタ、と赤いものが、綺麗に磨かれた床に落ちた。
 懐深く入り込んだ虎一太の刀を、雷蔵の錫杖の柄が受け止めている。その形で、二人は一旦静止していた。
 刃は墨染めの脇腹に食い込んでいる。実際は正面から急所を狙って突き出された忍び刀を、雷蔵が咄嗟に錫杖で横へ流したのだ。しかしギリギリの所だったので、軌道を外しきれなかった。それでも傷は動けぬほどには深くない。
 致命傷は辛くも防いだ雷蔵だが、次の掌底はさすがに躱せなかった。もろに喰らい、背後にふっ飛ばされるが、勢いのまま宙空で後転して体勢を整える。しかし正面を向いた時には、突進してくる虎一太の姿が間近に迫っていた。着地を待たず銀光が翻る。
 切っ先が三重に分かれ、目測が定まらない。
 錫杖の柄で受け流そうとして上手くいかず、手の甲や二の腕に裂傷が走った。
 地に足がついたと同時に、雷蔵は錫杖を支えの棒がわりにして跳躍し、高く空中で弧を描いた。さすがに虎一太もこれは予想外だったようで、頭上を大きく通り過ぎる影を追撃しきれなかった。
 雷蔵はそのまま間合いの外に降り、同時に口内に溜まった血を吐き出した。少し切ったようだ。
 だが双方とも、まだ息を乱すところまでは来ていない。

(さすが、棟梁殿は違う)

 雷蔵は無表情で痛みをやり過ごしながら、ゆっくり息を吐き、吸う。無傷の相手に対し、こちらは早くも大小傷だらけだ。なのにまだ反撃すらできていない。
 『朧』の異名は、決して虎一太自身の人柄のみを指して呼ばれるのではない。
 それは虎一太の持つ独特な技にもあった。言葉にするのも難しい動き。像が定まらない。身体の輪郭がぶれ、ぼやける。だから攻撃の間や距離を測れないし、目測が利かない。まるで朧月のごとく、形が曖昧になり掴み取れない。それゆえの『朧の太一』であった。
 これも藤浮一族の秘義だそうから、雷蔵にはどのようにしてその現象が起こされるのかまでは知りえない。足運びに鍵があると分かる程度だ。ある種幻術に近いのかもしれない。
 だからこそ、これが恐ろしい技なのである。

「〈陽炎(かげろう)〉を使って、ここまで型を外されたのは、お前が初めてだ」

 正直、少し驚いた―――小声でそう言うのが、耳に届いた。
 もう一呼吸置いて、無言で雷蔵は目を閉じた。再びは開けない。意図を察した虎一太が、やや困惑したような微笑を浮かべるのが、気配で感じ取れた。

「さすが薬叉と呼ばれた男だな。だが視覚を封じた先に、勝機は見えるのか?」
「さぁ。試してみないことには」

 先刻と同じ台詞を吐き、雷蔵は瞑目したまま笑った。そう、幻術と同じだ。目に頼るから惑わされる。ならば視覚以外の五感と、第六感に頼ればいい。雷蔵は己が幻術を使う手前、対幻術および妖術戦の熟達者でもある。その最たるものの一つが、この視覚を封じた戦法だった。
 それは虎一太も承知していることだろう。何故なら虎一太は戦闘中巧みに、しかし決して雷蔵とは目を合わせなかった。雷蔵が幻術を使えずにいるのはそのためだ。呪力を使った幻術は集中力が必要で、虎一太の攻撃の早さがそれを許さない。錫杖は忍び刀に対して不利を極めるから攻撃に打って出られないし、体術で互角である以上、雷蔵は一計案じるか、薬で勝負をつけるしかなかった。
 感覚を研ぎ澄ます。脳裏に、気配で形作られる人の形。さて、どこから来るか―――と、不意に脳裏に浮かんでいた人型が滲んだ。

「っ!」

 本能的に左へ飛ぶ。刹那の差で右側を風が駆け抜けた。

「視力を封じられれば、捉えられる―――そんな対処法、とっくに気づいている」

 思いの他近くで掛かった声に、考えるよりも先に急所を庇う。衝撃は後から来た。一回転して着地する。詰めた息を吐いた。重い鈍痛に頭が朦朧とする。

(なるほど、〈陽炎〉というのは気まで操るのか)

 幻術なんかよりもよほど厄介な代物だ。まさに隙無しだな、と感心しながら、それでも雷蔵は目を開けなかった。
 視覚に頼るな。気配も読むな。必要な感覚以外をすべて閉じろ。
 静かに、一つにだけ集中する。闇の中に幽かな影が浮かぶ。それはまさしく陽炎のごとく、揺れて一定に定まらない。
 にわかにそれがひときわ揺れ、大きくなる。
 風が頬に当たる―――躱した。
 瞳を閉じたまま、危うげなく紙一重で刀を避けた雷蔵に、虎一太は瞠目した。しかしそれもほんの一時で、突いた刃を返し横薙ぎに払いかけ―――突然、激痛が走った。
 虎一太が怯んだ隙を突いて雷蔵の錫杖が旋回し、鳩尾に鋭く打ち込まれた。
 虎一太は素早く後ろへ引き、ゴホ、と咳き込む。痛みを感じた右手首を見れば、焼け爛れたような赤味がある。鉄をも溶かす強い酸を発する薬によるものだとは、その時は気づけなかった。
 機を逃さず、雷蔵は追い討ちをかけるように、更に柄を回した。残像も残さぬ速さで地を蹴り、ひたすら敵を狙う。
 極限まで闘いに研ぎ澄ませた頭は静謐で、何も浮かばない。そこにあるのはただ標的の動きを止めるという単純明快な思考だけ。息の根を、命の源を―――瞬間、雷蔵の中で何かが弾けた。
 無の集中が途切れた。ハッとして、錫杖の穂先を咄嗟に下げる。
 その僅かな動きを見て取った虎一太は、すかさず反撃に切り替えした。
 忍び刀の柄頭が雷蔵の右手首の内側を強かに打ち据える。人体急所の一つだ。
 刺激が響きとなり力を奪う。錫杖を落とした。
 手練同士の闘いでは、たった一度の隙が命取りとなる。雷蔵は躊躇いでその絶好の機を逃した。代わりに虎一太が勝負を制した。
 背後に回り込まれて腕を捻り上げられ、床に引き摺り倒された。硬い木に胸部を打ち付けて、肋骨が軋む。
 間髪入れず虎一太が空いた手で、後ろ首のある一点を圧迫する。床に押さえつけられた全身が弛緩するのが、傍から見ても分かった。

「雷蔵!」

 突発的に叫んでから、しまったと美吉は顔を顰めた。
 力の緩んだ一瞬を逃さず、不知火が巧みな身のこなしですり抜ける。
 かと思えば、体位置を入れ替えて硬い腕を美吉の首に回し、力任せに締め上げた。

「形勢逆転―――って奴だな」

 容赦ない締め付けに、美吉は心中で毒づいた。
 隣で上がった悲鳴に視線を起こせば、なびきもまた、隙を窺っていた忍びたちに拘束されている。
 瞬時にして、こちらの身動きを完全に封じられてしまった。
 状況にそぐわない、乾いた拍手が響き渡る。
 一気に白けた空気の中、ようやく真打ち登場とばかりに、早人が打つ手を止め、一歩また一歩と悠然と歩み寄った。血が点々と散る中で、その真白の衣はひどく異質に浮いていた。

「実に素晴らしい。興味深い見世物であったぞ」

 満足気に頷き、影梟衆の棟梁へと目を向ける。

「その者をあれへ」

 指した先には、盤上の〈秘伝〉。
 細めた瞳に微かな逡巡を漂わせながらも、虎一太は言われた通りにする。「悪いな」と張りのない声で言うと、力の抜けた身体を引き起こす。少々乱暴な扱いに怪我が痛んだが、雷蔵は少し眉を顰めただけで、何も言わずされるがままになった。というよりも、何もできないのだ。ついさっき虎一太が首筋に入れたのは、四肢の運動神経を麻痺させる手技であった。

「……で、どうするつもり?」

 〈秘伝〉を横目で見やりながら、雷蔵は早人へ向かって口を開いた。
 特に怯えた様子もなければ、怒る様子もない。一見すれば諦めているようでもあり、引っ立てられているにしては、太々しい態度である。
 しかし早人は気に留めず、鷹揚と笑うのみだった。虎一太へ目配せすると、彼は雷蔵の頭を掴み、その喉元を白紙の〈秘伝〉の上―――波立つ酒の湖面すれすれに押し付ける。

「ッつ」

 髪を鷲づかみにされ、顎を仰け反らせるようにするものだから、痛みに思わず顔を歪めてしまう。おまけにこの体勢は少々きつい。ただでさえ虎一太から受けた傷がある。もう少し丁寧に扱って欲しいものだ、とどこか的外れなことを考えていると、後方の離れた所から息を呑む気配と、自分の名を呼ぶ声を聞いた。

「おい、コラてめぇっ そこのクソ教主! 何する気だ!!」

 不知火に羽交い絞めにされたままの美吉が、早人を強く睨みつけ、喚く。
 舌鋒の鋭さとは裏腹に、面は嫌な予感に覆われて、すこぶる色が悪い。
 早人は小うるさい虫を見るかのように、美吉を一瞥した。その手にはいつの間にか一振りの刀が握られている。美吉の目はそれに釘付けになっていた。『嫌な予感』の要因は、(それ)から発せられている。
 あれは、良くない。とてつもなく良くないものだ。鼓膜とは別の部分で、何かがそう囁いていた。

「〈秘伝〉は正統なる継承者にしか扱えぬという。儂は巻物(これ)を得てから、様々な古文書を調べさせてな。そのいくつかに、実に興味深い記述があったよ。―――〈秘伝〉の極意は、継承者の血の内に秘されるという」

 大人しく聞いていた雷蔵は、胸中でまたか、と嘆息した。正直この手の噂話はよく聞く。中途半端に合っていて、大幅に間違っているのも、よくあることだ。一体どんな根拠で誰がそんなことを言い始めたのやら。
 むせ返る酒香の中で、雷蔵はそれとなく〈秘伝〉の端を見た。
 四方を止める細い針には、呪が掛かっている。これが結界をなして、〈秘伝〉をこの場に押し留める楔となっているのだろう。だが、純粋に『留める』ことに重点の置かれた呪だけに、牢に掛かっていたような『破壊されること』への抵抗力は弱い。つまるところ、物質的にはただの針に過ぎない。特別なことは何もしなくていい、ただ抜いてしまえばいいのだ。そう、一本でも抜ければ、結界はすぐに崩れる。
 そこまでを見て取った雷蔵は、口中で小さく何言か呟いた。それから、フッと吹き出す。
 光を描いて滑空する細い針が、右端の呪の針を打ち抜く。ピン、と小さな音を立てて、互いに相殺し折れる。これでいい、あとは美吉が“呼べ”ば―――

「ゆえに〈秘伝〉を真の姿に戻すには、継承者の血を以てすると。〈秘伝〉を継承者の血中に浸せば、それは本来の姿を取り戻す―――とな」

 言葉を終えると同時に、冷たい感触が晒された首元に当てられる。
 一仕事終えてホッとしていた雷蔵の背筋に、にわかにぞくりとした悪寒が駆け抜けた。

(何だ、これは)

 ドクンと、心臓が大きく波立つ。
 恐るべき速さで、得体の知れない、黒く不吉なモノが広がっていく。
 本能が叫ぶ。見えぬ何かが急き立てる。いけない、と。
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