20.闇渡(やみわた)り、天走(あまはし)


 早人は、明かりの中でもぼう、と淡い燐光を放つ巻物に見入った。
 美しい呪物だと思う。薄汚れた外見に惑わされてはいけない。これだけの強い力を宿していてなお存在し続けられる呪具。世に干渉できる強力さでありながら、森羅の理に則って構築されており、歪みも矛盾もない。これほど完成されたものは未だ嘗て見たことながなかった。もはや神宝と言っても過言ではない。
 この呪物が本来のあるべき姿に戻った時、それはさぞかし素晴らしい波動を放つのだろう。
 その時を想像すると、早人は恍惚とならずにはいられなかった。
 対照的に、その背後では行尊が項垂れた様子で立っている。
 一通りの報告を受けたのだが、状況はあまり思わしくなく、むしろ憂慮すべき余地を大いに残している。
 そう―――取り逃した二人の忍び。この存在が行尊には得体の知れぬ恐怖を去来させる。
 しかし早人は落ち着いたものだった。

「多少の障害程度で崩されるほど、我らの計画は脆くない。何より、我らには四ツ輪の教えがついている」

 根が完璧主義者の行尊は、早人のように楽観視できなかった。

「ですが私はどうしても不安で仕方がないのです」
「そなたは少々思いつめすぎるきらいがある」

 楽しげな雰囲気を醸す白衣の後ろを見つめつつ、行尊は何度目かの溜息をついた。
 そこで、ふと思いついたように話題を変える。

「しかし、未だ連絡がないとなると、彼奴はしくじったようですな」
「彼奴とは?」
「あの娘です」

 行尊は怜悧な相貌を忌々しげにゆがめた。

「あの役立たず……家族を人質にとられていると分かっていながらのこの裏切り。所詮小娘ですな。大方奴らに情でも移って、命を奪うのが惜しくなったに違いない」

 その瞬間、僅かだが、早人の顎が上がった。

「命を奪う、だと?」
「あ、はい。あの娘に与えた命で―――
「この馬鹿者!!」

 突如走った怒号に、行尊はこれ以上もなく驚いた。心臓が鼓動を打つ。
 早人が体ごと振り返った。その目は、未だかつてないほどに、怒りの炎を宿していた。

「誰が殺せと言った!」
「し、しかし―――
「儂は、あの娘を使って痺れ薬なり眠り薬なりを盛らせ、捕らえさせよと命じたはずだ!」
「ですが、奴らは危険です! そんなことして万一逃がしてしまっては……」

 愚か者、と一際大きな怒声が響き渡った。ビリビリと広間の床や壁が振動し、声音が反響する。

「殺してしまっては、何の意味もなくなる!! 折角ここまでしてきたことが、すべて水の泡なんだぞ!!」

 その言葉が理解できず、行尊はただ青くなって、目を見開くばかりだった。
 チッと舌打ちをし、早人は背を向けた。行尊は忠実で切れる男だが、時折独断に走りがちになる。それが欠点だった。
 一呼吸おいて心を沈める。どうであれ、失敗したのなら、それに越したことは無い。低く言い吐いた。

「もう良い。しばらく下がっておれ。儂はこれから瞑想に入る」
「は―――

 よほど衝撃だったのだろうか、茫然自失の態で行尊は力なく一礼し、部屋を辞そうとした。

「待て」

 扉に手を掛けた瞬間、早人が呼び止める。
 行尊が半身を返せば、早人は後ろ姿のまま、悪戯を思いついた風な口調で言った。

「確かあれは完成していたな? ここへ持って来ておれ」
「……は」

 あれ、の部分で、行尊の面立ちが別の意味で強張ったのに、背を向ける早人は気づかない。いや、気づいてもどうでもいい。

 ―――よい余興だ、ひとつ試してみようではないか。

 心中で呟いて、ニヤリと不気味に笑んだ。




 燃え盛る篝火が、地面に深い影を落とす。
 風に煽られ揺れる明かりに合わせ、それらがまるで生き物か妖のごとく、ゆらゆらと蠢く。行きかう人々の影とあいまって、まるで彼岸の音頭のようでもある。地上のものと表裏一体となって動く地表の浮絵は、もしかしたら本当に、境のあちら側の姿を映し出しているのかもしれない。
 館の敷地どこもかしこも、隅々にまで緊張が張り巡らされている。炎に反射するいくつもの刃が、ひどく物々しい空気をかもし出していた。
 しかし、大きく違和感があるのは、その一人一人が、武装していながらもみな僧衣か狩衣であるところだ。明らかに神職と分かる者たちが、そろって武具を身に着け得物を持つ姿は、異様の極みだ。数人の組で規律正しく動くさまは、さながら一端の軍のようであった。
 見回りの隊に会釈をし、互いに異常の無いことを確認し合うと、正門の番兵たちは軽く息を吐く。気を入れ替えて、槍の柄を握りなおす。汗を掻いているのは、決して近くの篝火の熱さのせいだけではない。
 ふと、ある僧が顔を巡らせた。

「どうかしたか?」
「いや……」

 仲間の一人が声をかける。顎を上げ、視線を暗い空にさまよわせる僧は、自分の勘違いだったのだろうと思いなおし、かぶりを振った。一瞬だが、遠くで何か物音を聞いたような気がした。まさかな、と心中で漏らす。現に今は何も聞こえないし、四方を見やっても何ら怪しげな兆しはない。
 やはり空耳だろうと、仲間へ笑顔を振り向けたところで―――数人いる仲間たちが、そろって呆けている姿に打ち当たった。

「?」

 彼らの視線は、明らかに自分には向いていない。自分をすり抜けた、もっと上空あたりを、唖然と見つめている。

「あ、あ……」

 うち一人が、言葉にならぬ声で喉の奥を震わせながら、ゆっくりと指を翳した。
 空耳だと思っていた物音が、再び遠くから、今度はハッキリと鼓膜を打った。滝の音のような、腹の底に響く重い轟き。
 生ぬるい風が吹いてきた。燦々と周囲に焚かれた炎が、一つの方向へ流れる。
 背後の温度が不意に下がった気がして、僧は不気味な予感に戦くまま、正門を見た。
 固く閉ざされた門と、左右の篝火。そして両側に伸びる土塀。その上。
 つい先ほどまで、確かに浮かんでいたはずの朧月が、今はなかった。
 いや、天上は微かに明るい。月光はあるのに、月そのものに、何か大きな影が掛かっていた。
 雲とは違う、何か。
 その間に徐々に音は増してくる。いや。近づいてきているのだ。

「あ……あれは―――
「御仏よ……!」

 叫んだのは誰だったのか。ガシャンと武器が石畳の上に転がる。
 番兵たちは、こぼれんばかりに大きく目を見張って、迫り来る“それ”をただ凝視していた。

「う……わぁあああ!!!」

 悲鳴を掻き消すように、門の屋根が崩壊する轟音が響いた。
 頭上から粉々になった瓦や木片が降り注ぐ。僧兵達は慌てて伏せた。その上空を、明かりにきらりきらりと反射する鱗が、凄まじい速さで通り過ぎて行った。豪風に煽られた篝火が石畳の上に倒れ、綺羅を散らかす。
 突如屋敷内に、破壊と阿鼻叫喚の嵐が吹きすさぶ。

「ヒィィ、お助けを!!」
「化け物―――!」

 皆一目する度、武器など放り出し、甲高い声を上げて逃げていく。
 あれよあれよと警護の陣は崩れていく。もとより信心深い者たちばかりであったことが災いした。誰もが人外の姿に極度に恐れ慄き、我先にと背を向けた。
 その間にも、鱗のうねりを見せながら、それは次々と建造物に突撃しては屋根やら壁やらを破壊していく。
 震える脚を縺れ(まろ)ばせながら逃走する者もあれば、建物の陰で頭を抱え隠れる者もあり、はたまた平伏する神主や、震えながら陀羅尼(だらに)を唱え始める僧侶もいた。
 瞬く間にして、年寄屋敷は混乱の渦に巻き込まれた。




 そんな、眼下で繰り広げられている騒然とした光景に、美吉は「おお」と呆れともつかぬ感嘆を漏らした。

「まさに阿鼻地獄」
「失礼な。地獄ってほど酷いことはしてないよ」

 美吉の前、先頭に近い所に悠然と胡坐をかく雷蔵は、心外だとばかりな声音をつくった。

「普通やるか、こんなこと」
「相手が相手だからね。下手な小細工は効かないし、闇に乗じるのが無理なら、正面から堂々と入るまでだよ」
「ちと堂々すぎやしないか?」

 再び下を覗き込み、美吉は微妙な顔をした。あーあ拝んでる奴までいるし、可哀想に、と心の中で同情する。

「『正攻法で行く』って言うから何かと思えば……これは正攻法じゃなくて反則技っつーんだよ」
「そうだっけ?」

 すっとぼけた返答をする雷蔵に、美吉は「無茶苦茶だコイツ」と引きつった目線を送った。それから長く深く溜息をついて、皺寄った眉間を揉む。自分もいい加減適当な方だが、雷蔵はもっと酷い。これでまぁよく上忍などやっていられたものだとつくづく思う。こんな大雑把な上司に率いられたら、命がいくつあっても足りない。
 ちなみになびきはといえば、先ほどから美吉の隣で硬直している。とにかく振り落とされたり体勢を崩さぬよう、彼の肩あたりにしがみついていた。目隠しをするその面は、見るからに強張っている。彼女自身は一体何が起こっているのか分からないまま、しかし下方より聞こえてくる悲鳴やら破壊音やらに、自分のいる状況が尋常ならざることだけは固く確信していた。
 ちなみに目隠しは雷蔵に言われての処置だ。出発前、疑問を投げかけるなびきに雷蔵が返した言葉は曰く「君は知らない方がいい」の一言。ついで美吉からも「身のためだ」と妙に神妙に勧められたこともあって、大人しく見ざるの状態を受け入れた。初めは視界を塞ぐ布を取りたい衝動にかられたが、今となって外さないのは単純に知るのが恐ろしかっただけだったりする。絞め殺されるんじゃないかというような悲鳴が聞こえてくる。多分、知らない方がいいのだ。絶対。
 すっかり蒼くなっているなびきを余所に、二人は“乗り物”が高い速度で曲がりくねる中、いたって平然と会話を交わす。

「しかし、まさか“コイツ”を持ち出すとは思わなかった。いいのか」
「それほど気にすることもないだろ。俺が幻術使いってことは影梟衆なら知ってるし」
「ならいっそ、本当に幻術にしてたら良かったんじゃねえの?」
「幻術の方が案外疲れるものなんだよ」

 幻術は基本的に『無意識』という人間の心の空隙を突いて仕掛ける瞬間催眠のようなもの。本来、一般的な幻術は催眠術の域を出ない。所詮は『幻』に過ぎず、現ではないものを現と思い込ませるだけだ。この技術は特殊な能力がない者でもコツさえつかんで訓練をつめば習得できなくもない。もちろん向き不向きはあるけれども。
 ところがこれの欠点は、催眠にかける対象者全員の注目を集めないと成功しないところだった。何故ならばこうした幻術とは、一瞬のうちに相手の目へ『気』を放つことで暗示を掛ける技だからである。
 人間は通常、感覚の八、九割を視覚に頼っている。であるから幻術をかける際も視覚に訴えるのが一番やりやすい。時折聴覚を利用する珍しい幻術使いもいるが、大方は目で掛ける。ゆえに目を合わせなければ意味が無い。
 この欠点を解消するために、特別に用いられるのが呪力である。
 呪力を使えば、いちいち会った先から対象者に目を合わせて気を発して、などと面倒なことせずとも、術者の任意で物に『幻』を“纏わせ”たりすることができるのである。さしずめ目に見えぬ外殻のようなもの―――たとえば雷蔵が囚われた先の坑道で、美吉と自分、そして牢番二人にかけたのもこの類に入る。
 ただしこちらは呪力を使うから、通常の幻術よりも気力の消耗が激しい。数人程度の小規模なものなら何ともないが、さすがに不特定多数の人間を相手に、広範強大な『幻』を作り出すのは骨が折れる。
 また幻術は陰陽師や方士の使う『式』ともものが異なる。『幻』はあくまで『幻』に過ぎず、たとえば幻術で刀を形作ったとしても、それを現実に反映することはできない。したがって幻術で作り出したものに乗るなどということも不可能だ。
 呪力を使おうと使うまいと、結局のところ幻術とは、ただの目晦ましにすぎないのである。
 そこへいくと、雷蔵たちが今現在乗っている“もの”は実際は『幻』ではなりえぬのだが、影梟衆たちには幻術とそうでないものの判断などつかぬに違いない。きっと“これ”も雷蔵の作りだした幻術の一つだと思い込んでくれるだろう。

「お前が使ってんの見て便利そうだと思っていたけど、幻術って意外にめんどくせぇものなんだな」
「場合によりけりかな」

 実際、坑道の時には役立った。要するに適材適所ということである。
 雷蔵は記憶を呼び覚ますように、軽く顎を上げる。

「純粋に幻術だけをとるなら、段ちゃんの方がずっと上手(うわて)だよ。彼は呪力なんてナシで大多数相手に派手な幻術かますからね。あれはあれで秘奥義らしいから、頼んでも教えてもらえないけど」
「段ちゃん?」

 一瞬誰のことか分からなかったが、幻術と聞いて美吉は一つの予感に眉を顰めた。こめかみを嫌な汗が伝う。

「もしやそれって、あの鳶加藤(とびかとう)のことじゃ……」
「当たり」
「当たりってお前な」

 最早どう突っ込んでいいか分からず、美吉はついに上空を仰いだ。
 鳶加藤こと加藤段蔵とは、流れ透波者である。信州戸隠山の鳶ノ一族とも、伊賀忍とも言われているが、基本は出身不明だ。ただ並々ならぬ忍びの術でもって名を轟かせており、ことに体術、中でも跳躍力と幻術に優れていることから、鳶加藤あるいは飛び加藤と渾名されている。
 その伝説的な敏腕忍びを持ってきて「ちゃん」付けとは、これいかなることか。

「知り合いなのか」
「たまに会って、軽く手合わせする程度には」
「もしやとは思うが、向こうはお前のこと……」
「『雷の字』って呼んでくるよ」

 自分の中の加藤段蔵の人物像が壊れず済んだことに美吉はほっとした。
 ともかく二人が比較的親しい仲らしい。こう見えて意外と有名忍(ゆうめいじん)のことには耳聡い美吉にしてみれば、羨ましくないと言ったら嘘になる。さすがは元京里忍城の出世頭、やはり大手の異名持ちは有利だ。
 世を忍ぶことこそを上と為す忍びであれば、本来通り名をつけられるほど人に知られるのはむしろ失点であって、真の意味での「上忍」とは言えないのであるが、雷蔵や、まさしく今敵対中の影梟衆の棟梁などは、敵を引き付けるためにあえて名を売り身を晒して矢面に立つ。光あるところの闇ほど深いように、彼らの陰でほかの者たちが動きやすくなるのである。それだけに囮役は危険にさらされる割合が断然高く、常にそれらを切り抜けられる技量を要される。
 必然、有名どころは相応の腕と武勇伝を持つことになる。隠れ、逃げ、不残(のこさず)が忍びの本分であり、戦闘は二の次だと分かってはいても、同じ忍びとして憧れぬはずがない。しかし自分のような無名無所属の流れ透波(もの)ごときでは、大物と面識を持つ機会など皆無に等しい。
 そこで美吉は話が大分逸れていることに気づいた。

「彼も苦労人でねぇ。腕が良すぎるのが災いして、なかなか雇い手がないんだよね。まぁあれは段ちゃん自身の性格にも問題が……」
「ってお前、悠長にそんなこと話している場合じゃないだろ」

 美吉の全くもってもっともな指摘にようやく雷蔵も下を見る。のほほんと会話している間に、建物はどんどん壊れていって混乱が拡大していた。

「そうだったそうだった。―――美吉、場所は?」
「右、寅よりに真っ直ぐ。奥のあのデカイ屋根だ」
「だってさ。よろしく」

 ポンポンと己が座っている下を掌で軽く叩く。
 それを受け、彼らを乗せたものは旋回して、示された建物を真っ直ぐ目指す。

「そろそろだね」
「ああ」

 美吉はなびきを小脇に抱えて(何やら文句が聞こえたが無視した)、間を待った。
 徐々に速度を上げて近づいてくる。二人の型違いの墨染めと髪が、風に大きくはためいた。
 建物とすれ違いざま、二人は跳躍する。表の人間からは死角になるように、巧みに。
 夜闇を潜って、三つの影がヒラリと宙を舞ったことに、気づく者はいなかった。
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